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第2話 ショパンとジャズ

 よく言う地獄耳とは比べられないほど俺は聴覚が優れていた。 今流れている一階の音楽も客の会話も、マスターの息遣いすら聞こえてくる。 聞こえる範囲は大きさにもよるが役三十メートル。 耳打ち程度の音量なら一軒家のどこにいても聞き取れる。 澄ませば澄ますほど。 自分がいない場所で自分がどう言われているかよく聞こえる。 「僕も日常生活音に全部音符がついちゃうから分かりますよ」  真木多衣良はそういうとピアノの「ド」の音を鳴らす。 「隼人さんの声はド。興奮するとミになるが、せいぜいレ止まりかな。今のところ」  長身でリーチのある腕。男のわりに細くて長い指。 指先が少し丸くて鍵盤によく似合う。 この容姿にピアノが加われば学校でもファンが多そうだな。  「自由に弾きたいんだったら、ジャズを教えてやればいいだろう」  二階にマスターがコーヒーを二つ持って入ってきた。 「マスター」  コーヒーを受け取るとマスターは腰を叩きながら棚からLPレコードを取り出した。 「リー・モーガンだ。定番だが何度聞いてもいい」  マスターは数枚のLPレコードを真木多衣良に見せた。 「僕、ジャズなんて弾いたことない」 「弾けるかどうかなんて問題じゃない。君の魂の音を鳴らせばいいのさ」  マスターがお得意のウィンクをする。 「ジャズねぇ」  俺はコーヒーを啜りながら頭のなかでリー・モーガンMoanin’が流れていた。 この店でもよく流れている曲だ。 するとマスターは一枚のチラシを見せてきた。ワードで作られた手作りチラシはまだ途中のようだ。 「来月のクリスマスイヴにこの店でジャズセッションやるから多衣良がピアノ演奏したらいいよ」 「「ええ!」」  思わず二人の声が揃う。 「曲の構成から段取りまでは隼人、君にお願いしようかな」 「ちょっとマスター、何で、俺が?」 「アメリカから古い友人が遊びに来るもんでね。せっかくだから昔を思い出したくてさ」 「いや、協力はするけど、何でこいつも入れるんすか」 「隼人。今までの二年間、君に文句も言わずこの二階とピアノを貸してきたのに、僕のお願いが聞けないのかい?」  いつも穏やかで優しいマスター。顔が笑っているのに、目が笑っていないぞ。 「店は予約制にするから客集めも頼むよ」  こうしてクリスマスジャズセッションの準備が始まった。

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