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第3話 ショパンと調律
「はぁ~。今日も隼人さんは来ないのかなぁ」
「ははは、毎日来るわけじゃないからなぁ」
独り言のようにため息交じりつぶやくとマスターがコーヒーを出しながら付き合ってくれた。
「しかし、隼人のピアノはそんなにすごいのかい?」
「すごいですよ。なんていうか、こう人の心にぐっと入ってくるというか、個性的というか、上手なのは当たり前なんだけどそれだけじゃない演奏をしてくれるんだ」
僕は乏しすぎる表現力に自分でがっかりする。
身振り手振りなんとか伝えるとマスターが笑った。
「そういえば隼人さんはなんのお仕事してるんですか?」
ピアノ教室を開講しているなら是非行ってみたい。
「それはプライバシーだから本人に聞くしかないな」
マスターはカップを拭いて、棚に戻した。
分厚い胸板と広い肩幅でカウンターが狭く感じる。
「待ちぼうけなら、二階でピアノでも弾いてるかい?」
「え、いいの?」
「二階は隼人専用なんだが、隼人の弟子なら仕方ないな」
「ありがとうマスター」
初めは入りづらかったこの喫茶店は一度行くとその心地よさで常連になってしまうのが分かる気がする。
マスターが厳選したジャズは視界を包む橙色の店内にとても良く馴染む。
棚に並ぶジャンルを問わない無数の本を手に取れば一人でも退屈な時間がコーヒーの香り漂う優雅な時へと変わる。
テーブル一つ一つに充てられた照明は自分の手の甲にスポットライトが当てられ小さな舞台の主人公になった気分にさせてくれる。
ここにある穏やかで少し背伸びしたようなゆっくりとした時間と空気がこの店主であるマスターから創り出されている事を通う人間は感じるようになる。
ありのままでいられる自然体な雰囲気は窮屈な日本人とは違うマスターだから成せる事なのかもしれない。
マスターと一緒にいると多衣良はドイツにいる大好きな祖父をどこかで思い出していた。
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