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第9話
からっとした気持ちのいい日和の午後のこと。
すっかり傷も塞がった竜巳は、青空の下、洗濯に精を出していた。輝夜が汲んできた桶の水で布をこすり、汚れを落として干す。これが終わったら風呂の火を焚(た)いて、夕餉(ゆうげ)を準備する心づもりでいる。
「いつまでも怪我人扱いしやがって……!」
竜巳は最後の着物を竿に引っ掛けると、満足げに額を拭った。
輝夜は他の村人に用があるとのことで、朝早くに出かけて行った。おそらく夕方まで戻らないという。ここに拾われて来て初めて、望まず一人になる時間を得ることになってしまった。
そこで考えたのが、いつまでも怪我人扱いして一向に身体を動かすことを許さない輝夜を見返してやるということだった。
身体を動かす稽古はもちろん、炊事や掃除すら手を出すなと言うのだ。身体がなまる一方だ。世の中の師が聞いて呆れるではないか。自分がもう何でもできるようになったところを見せつければ、稽古をつけてくれるかもしれないという淡い期待もはらんでいる。竜巳は早く力をつけたかった。やはり男は強くなくてはならない。
さて、次は風呂だ。
そう踵(きびす)を返したその時。
「何をしている」
聞きなれたものより幾分か低く、不愉快さの混じった声が響いた。竜巳はおそるおそる声のする方に顔を向ける。
「こ、輝夜、まだ帰ってこられないんじゃ……」
竜巳が身を竦めると、輝夜はふん、と鼻を鳴らしてぺしりと竜巳の頭を叩いた
「お前が何をしているか気にかかって帰って来てみれば――本当に分かりやすいやつだな。傷が治ったと見せかけて、俺に稽古をつけさせようとでも画策したんだろう」
殆(ほとん)ど図星で、竜巳は頬を引きつらせることしかできなかった。しかし、何も見せかけて騙(だま)そうとしているわけではない。実際に完治しているのだ。もう十分に全力で動き回ることが出来る上、何より竜巳は己の肉が落ちることを嫌った。
つまるところ抱かれようと何をされようと強くなりたいのだ。
そんな竜巳の思うところを知ってか知らずか、目の前の男は一向に稽古をつけてはくれない。つい恨めしげな眼を向けてしまう。
「……まあいい、中に入れ」
輝夜はそう嘆息し、担いでいた荷物を降ろして不機嫌そうにさらに顔を歪めた。
「でも、元気になったのは本当なんだ」
「……ほう」
師である男にきっ、と睥睨(へいげい)されてしまえば、竜巳は反抗することができなかった。慌てて後を追い、玄関口へと向かう。
「……この辺りは奇妙な獣が棲(す)んでいる。もう外には出るな」
「奇妙な獣?」
「ああ、人の言葉を放す、人の顔をした狐のような化け物がいる。その化け物はお前ぐらいの年頃の子供の血肉を好むのだ」
竜巳はその姿を想像して、息を呑んだ。ここから山賊の根城(ねじろ)だった山までの距離こそ推し量れないが、あの土地でそんなものを見たり聞いたりした覚えはない。この土地にのみ潜むものなのか、あるいはこの男に揶揄われているのか。
大真面目に思案する竜巳に訝しげな眼を向けて、輝夜が少年を呼ぶ。
「何をしている。入れ」
「あ、ああ」
促され、渋々暗い室内へと戻った筵の敷かれた居間へと上がると、部屋の奥に歩み入った輝夜が手招きする。
「こっちだ」
「?」
駆け寄って近づくと、それまで何故気づかなかったのだろう、そこは一枚の戸になっていた。
「稽古は、ここでつけてやる」
そう言って輝夜が戸を外すと、現れたのは二十畳近くある道場のような場所だった。全面板張りで、壁には漆喰が使われている。天井近くから差し込む光が辺りを柔らかく照らしていた。表のぼろ屋からは想像もつかぬ贅をこらした室内を、竜巳は呆気にとられつつ見回した。
「すごいな、ここは?」
「道場の名残だ。父が、村の者相手によく稽古をつけていた」
「その父君はどうしたんだ?」
「殺された」
「……そうか」
ではこの男も己と同じく、天涯孤独の身と言うわけか。竜巳は無遠慮に輝夜の顔を見た。涼しい眼差しで、どこか思い出に浸るように道場を見回している。しかしそれも一瞬のことで、竜巳と視線が交差すると愁いを帯びた気配は溶けるように霧散してしまった。
「お前の仕事はここの掃除と炊事にしよう。他のことはしなくていい」
「は? でも」
「外に出るなと言っただろう。それぐらいの言いつけは守れ」
再び輝夜が凄(すご)んだ。今になって思うがこの男、その美貌(びぼう)が凄んだ際の迫力に拍車をかけている。酷薄(こくはく)な視線に言葉を発することすら躊躇(ちゅうちょ)して、竜巳はぐっと押し黙った。
「……分かった」
腑(ふ)に落ちないながらもそう返せば、輝夜からふっ、と怒気が失せた。案外、単純な男なのかもしれない。
「では早速、稽古と行こうか」
「へ? うわ」
背中を強く突き飛ばされ、倒れこむように道場に足を踏み入れる。輝夜は喉の奥で笑った。
「さあ来い。相手をしてやるぞ」
一瞬呆けた後、竜巳はにっ、と笑った。
その勢いのまま、輝夜に突っ込んで殴りかかる。
「遅いな」
それを難なく躱(かわ)され、背中の首筋にとん、と軽い手刀を一発を食らう。
「この手が刀であれば、お前は死んでいたところだぞ」
せせら笑うような声に、腹の底がかっ、と熱くなった。反射的に身を離し、きっ、と男を睨め付ける。
「まだまだ!」
勢いをつけて横殴りの蹴りを繰り出すが、それもさっと避けられてしまう。隙をついた輝夜の一撃が鼻先をかすめたが、何とか上半身を逸らして逃げ延びた。
「あっ、ぶな……!」
「ふふ、俺の拳を避けるとはやるじゃあないか」
輝夜が拳を握り直し、まだよろめいている竜巳の懐に突っ込んだ。
「そら!」
「っ!」
その攻撃も何とか躱すことに成功する。輝夜は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)といった様子で笑っている。上手く躱したからといって安堵している暇はない。視界の端に、輝夜が追撃を繰り出そうとしているのが見えた。
「くっ、そ……!」
態勢を崩した状態では避けきれない。竜巳は一瞬思案して――あえて転んでごろごろと床を転がり、敵から離れてから態勢を立て直した。
間を取り直して立ち上がると、輝夜は目を丸くした後、嗤(わら)った。
「なかなか姑息(こそく)な手を使う」
「こういうのはやったもんがちだろ」
竜巳は輝夜の懐に飛び込み、その鼻っ面を殴ろうとして――しかしその拳は、ぱしっ、といとも簡単に受け止められてしまった。
「なっ」
驚きを隠せない竜巳を輝夜がせせら笑う。
「そらそら、これで終わりか」
「ぐ……!」
輝夜から離れようと身を引くも、拳を強く掴まれたままで逃れることが出来ない。
そして輝夜は困惑する竜巳の足元を、容赦なくはらった。
「う、わっ!」
天地がひっくり返り、どたりと身体が床に叩きつけられた。背中に鈍痛が広がる。すると、輝夜が妙に神妙な面持ちでこちらを見下ろしているのが見えた。
「うん、お前の癖はようく分かった。得物を持つ前に構え方から学ばねばならんな。明日からは基礎を中心に稽古をつけてやる」
「うう……」
痛みにもんどりうつ竜巳の顔をしゃがんで覗き込み、輝夜はくつくつと笑った。その笑いに嫌な予感を覚え、竜巳の肌がぞわりと粟立つ。
「な、なんだよその顔……!」
「いいや。……で、負けた者は勝者の言いなりになるという約束だったな?」
予感は外れではなかったらしい。
「は⁉ そんな約束してな……む、ふ!」
竜巳が惑った刹那、輝夜の唇が落ちて来る。男の唇は相変わらず少しだけかさついていた。
「……は……。ふふ」
その口づけは、竜巳が呆けている一瞬のうちに終わった。
ゆっくりと離れていった琥珀色の双眸(そうぼう)は、いやらしい笑みを湛えている。
そして呆然とする竜巳の頭を一度だけわしゃりと撫でた後、輝夜はすたすたと道場を出て行ってしまった。
「……う!」
呆然としていた竜巳の顔が真っ赤に燃え上がる。同時に、心臓がどくどくと早鐘を打ち始めた。怒りにも似た言いようのない感情が胸の中に渦巻く。
唇に触れると、まだ輝夜の熱が残っている気がした。
「一体何がしたかったんだ……」
小さな呟きは、静寂の中に消えていった。
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