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第10話

「輝夜?」  日も暮れ切った頃、竜巳は薄闇の中で目を覚ました。 起き上がろうと身体に力を入れようとしたが、全体が軋んで上手くいかない。 当然か、と諦め、竜巳は再び筵の上に四肢を投げ出した。  あの後、竜巳の値踏み――腕試しを終えた輝夜は、竜巳にしなだれかかって戯れるようにその身体を抱いた。 竜巳は己の流されやすい性分を呪い、恥じた。 しかし、そもそも悪いのはあの男だ。あの目に求められると、何故か逆らえなくなってしまう。彼がひどく優しく触れて来るのも悪い。欲の処理ならばもっと乱暴にしてくれればまだ折り合いがつく。それをしないということは、つまりまあ女慣れしているのだろう。いや、男慣れの可能性も否定はできないが、彼はどうすれば人を丸め込むことができるかを熟知している。 だがやはり己も己だ。佐平をあれだけ憎んでいながら、輝夜のことは憎み切れないでいる。当時は何より、自分にのしかかってくる男が恐ろしかったのを覚えていた。この太腿の跡さえなければ、こんなにもあの男を憎むこともなかったのかもしれない。だが、仮説は仮説だ。理由なく己を辱めた佐平が恐ろしく、憎い。それが現状である。 それにしても、輝夜の残す鬱血の跡もなかなかのものだ。全身に散った花弁はしばらく消えることは無いだろう。 とんだ男を師にしてしまったものだ、と思いながら、今度こそ痛む身体に鞭打って起き上がった。  囲炉裏がまだぱちぱちと爆ぜているのを確認して、湯で身体を清めようと手拭いを手に取った。  そこで竜巳は眉根を寄せる。 「……あれ?」 身体がさらついている。中に出されたというのに溢(あふ)れてくる様子もなかった。  わざわざ白濁にまみれた弟子の身体を拭き清めたと?  あの男はどこまで世話焼きなのだ。それで師など名乗れるものか。怒りと照れくささと、言いようのない感情で胸の奥がじわじわと熱くなる。 「……くそ、そんなことより、飯の準備しないと……」  なんだか胸が熱い。きっと「疲れたから」と理不尽な抱かれ方をしたせいだ。それで憤っているのだ、と無理やり理由を付けて、竜巳はかぶりを振った。  今日の飯を考えるのも億劫だったが、数日代わり映えのしない献立ばかりだったのを思い出す。味噌で野菜や肉を似た汁は、竜巳の鉱物になりつつある。  仏頂面の竜巳がのそのそと衣服を纏った、その時だった。 「おーい、輝夜―!」 「!」  どんどん、戸を叩く音がした。若い、聞き覚えのない男の声だ。 「いねえのか?」  立て付けの悪い引き戸ががたりと開く。 慌てた竜巳が隠れる間も無く、その人物はひょこりと顔を出した。 「なんだ、いるじゃねえ、か……? ……え、誰だ、おまえ」  そう間の抜けたような声を上げたのは、どこか人の好さそうな少年だった。年は竜巳と輝夜の間といったところだろうか。眦(まなじり)の下がった人の好さそうな顔をしている。無造作に伸ばされた短髪を逆立たせ、巣から顔を出した鼠のような恰好で竜巳を見ている。まくられた腕に黒目がちな瞳がどこか溌剌とした印象を受けさせた。  竜巳は首を何度も横に振って狼狽した。 「お、俺は輝夜の弟子で――」 「弟子⁉ あの輝夜が?」  素(す)っ頓狂(とんきょう)な声を上げた少年は、一拍の間の後、ぶっ、と噴(ふ)き出した。 「おもしれえ、あいつが弟子をねえ~、へえ」  そんなにおかしなことなのだろうか。へらへら笑いながら歩み寄ってきた少年は、竜巳に顔の高さを合わせて顔をまじまじと覗き込んできた。その瞳に探るような色は見えず、純粋な好奇心でのみ輝いているのがわかる。  そうしてにやにやと笑っていた少年が、はっ、と身を引いて何かを考え込みだした。数秒の間の後、おそるおそるといった様子で竜巳に尋ねる。 「なあ、もしかしてお前が竜巳か?」 「? そうだけど」  なぜ自分の名を知っているのか不信に思ったものの、輝夜の知人であれば居候が出来たぐらいの話はしていたのかもしれない。首肯すると、少年はぎょっと目を剥いてから困ったように笑った。 「へえ~! まさか、本当に連れて来るとはなあ!」  少年が竜巳の背中をばんばんと叩いた。痛くは無かったが、状況を飲み込めない竜巳は身体を強張らせる。 それに気づいた少年は、にかりと笑って自分自身を指差した。 「俺は伊(い)織(おり)。輝夜と同じ里の者だ、よろしくな」 「あ、ああ、よろしく。生憎(あいにく)と輝夜はどこかに行ったようだけど……」  彼とは仲良くなれそうだ、というのが竜巳の感想だった。照れ隠し混じりに頬をかくと、伊織は「大したことじゃないからいいんだ」と笑ってから、竜巳を見下ろして視線を彷徨(さまよ)わせた。 「あーと、竜巳。お盛(さか)んなのはいいけどよ、首、隠した方がいいぞ」 「え? あっ、うわ!」  忘れていた自分の身体の惨状(さんじょう)を思い出す。首には情事の痕がくっきりいくつも残されているはずだ。顔が真っ赤を通り越して真っ青になる。慌てて首を両手で絞めるようにして隠した後、部屋の隅に落ちていた襟巻(えりまき)を手に取り、首にぐるぐると巻き付けてやった。 「こ、これで見えないか?」 「ああ、大丈夫だ、見えない。……しかし、お前も苦労してそうだなあ」 「……別に」  伊織が心底同情した様子で嘆息した。  己の決めたことだ。今更文句を言うつもりなどなく、そして哀憫(あいびん)もいらなかった。たとえ苦労していたとしても、それを自分から語る気にはなれず、竜巳は押し黙る。 「……それよりあんた、輝夜に用があって来たんだろ? 帰って来るの、ここで待つか?」 「いいのか! 竜巳は優しいな!」  外は寒いからなあ、などと呟きながら、二人そろって囲炉裏の傍に腰を下ろした。 直火にかざされた彼の手は、散る直前の紅葉のように赤い。白湯(さゆ)であれば出しても叱られまいと、仕掛けられた鍋から湯を掬(すく)って湯呑に移し、伊織に差し出した。 「こりゃあすまねえ、ありがたく頂くぞ」  白湯を啜る伊織を盗み見る。年の甲は十七――いや二十手前か。顔つきのために実年齢より若く見えそうな性質(たち)である。こんな地方には珍しく、胸元のだらりと空いた着流し姿だ。縞模様の柄がさっぱりとしていてよく似合うな、と思った。  不躾にまじまじと観察していると、視線に気づいた伊織が「そう固くなんなよ」と苦笑した。 「竜巳はいつからここに?」 「そうだな……ひと月……は立っていないな。新の月から望月に変わるぐらいだと思う。あいつ、俺の事斬り付けたくせに拾って来たんだ」  あまりの成り行きに竜巳自身困惑しながら答えると、伊織は白湯をぶっ、と噴き出してむせ始めた。 「げほっ……けほっ……! あいつお前の事まで斬ったのか! ……拗(こじ)らせてんなあ、あの色男」 「ああ、斬られて、傷がここに――」 「うわ、いい! 見せなくていいぞ、大丈夫だ! 輝夜に殺される!」 「? そうか?」  襟に掛けた手を戻すと、伊織は安堵したようにため息を漏らした。慌てふためいたかと思えば心底安心して、忙しい御仁(ごじん)である。 「それより、湯をもう一杯もらえるか?」 「分かった……ん?」  伊織から湯呑を受け取ったその時、引き戸ががらりと開いた。 現れたのは、すらりとした長身の美しいこの家の主――輝夜だった。

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