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第14話

ざあざあと険しい渓流を水が流れゆく。居候になる前までは青々としていた葉が、いつの間にか赤に黄色にと鮮やかに色づいて山を染め上げていた。 「落ちるなよ、ここで落ちたら助からんと思え」 「分かってる!」  伊達に山暮らしをしていたわけではない。危険かどうかぐらい見ればわかった。  竜巳は意気揚々と岩場を駆け回り、大自然にいる喜びを謳歌した。水に浸した手も背筋にぞくりとくるほど冷たい。家の中でぬくぬくと過ごしていた竜巳にとっては、その感触さえ高揚を生んだ。 「おい、遊びに来たのではないぞ。目的を忘れるな」  輝夜の声にはっと我に返る。 「わ、分かってるって!」  今日は食糧の調達に来たのだ。浅瀬や流れの急でないところを漂っているのが見える。輝夜はざばざばと水の中に入っていくと、ばっ、と勢いよく手を突っ込んで魚を掴み上げた。竜巳は感嘆した。 「あんた、仕掛けもなしに魚を獲れるのか?」 「見れば分かるだろう。この程度のこと造作もない」  そう叫ぶと、輝夜は魚を掲げてにやりと笑って見せた。  負けじと竜巳も川に入る。ふくらはぎまで浸かると足の芯から凍り付くのではないかと思わせる程冷たかったが、沸き起こる負けん気を反動に耐えた。しかし輝夜のように上手くはいかない。近づこうとしただけで逃げられてしまうのである。輝夜はひょいひょいと魚をすくい上げては魚籠の中に流し込んでいった。 「……全然獲れねえ……」 「ふふ、お前にはまだ早いさ。気配を消すことなどできぬだろう」  ざばざばと水をかき分けて歩いてきた輝夜が、くすくすと笑いながら陸に上がる。輝夜もそれに続いた。魚籠を除けば、十匹ばかりの魚がびくびくと跳ねている。 「今日は焼き物にするか。川の魚は泥くさくて鍋には向かぬからな」  そうひとりごちながら、輝夜は岩場の上に腰を下ろして手拭いを竜巳に渡してくる。竜巳も魚籠を挟んで輝夜に並ぶように座った。 「なあ、いつも食ってる肉は全部あんたが仕留めてるのか」 「ああ。熊は手こずるが、鹿や猪はどうということはないな。野兎やキジなど一捻りよ」 「へえ……」  線の細いこの男の印象とは大違いだった。一体この身体のどこに力が秘められているのだろう――そんなことを思いながら手拭いで足を拭っていた時だった。 「鬼丸じゃねえか!」 背後からそんな声がかかった。  振り返ると、そこには三十路を超えたあたりの美丈夫が居た。輝夜のように美しいという言葉の似合う相貌ではなく、頑丈そうな男だった。前髪を後ろに流して一つに括った黒髪に、野良着を着て微笑んでいる。黒目がちの瞳にその目じりのしわが彼の人の好さを強調させていた。 「なんだ、風早か」 「なんだとはなんだ。最近姿が見えねえと思ったら、随分可愛い犬を囲ったらしいじゃねえか」 風早の双眸が竜巳を捉え、「へえ」と値踏みするような眼で凝視される。 「これはまた。女みてえな顔してるな。しっかしもったいねえなあ、傷――」 風早の手が竜巳の頬に伸ばされた瞬間、触れる直前でぱしん、と叩き落とされた。 「そいつに触れるな」 「……おいおい正気かよ。随分過保護っつーかなんつーか……それよかお前、自分がしでかしたことの意味、分かってんだろうな?」 風早(かぜはや)はやれやれと苦笑した後、剣呑な面持ちで声低く尋ねた。輝夜がどこかばつの悪そうな顔でそっぽを向く(むく)。 「忍の里の掟じゃあ、よそ者連れ込むのはぁどんな理由があったってご法度だろ」 「⁉」  竜巳がぎょっ、と目を剥いた。あまりの衝撃に硬直する。後半は殆ど聞き取れていなかった。  耳に残ったのは一言のみ。 忍の里。 竜巳は愕然とした。遠い昔、耳に覚えがある程度の、存在するのかも不明な隠れ里。  しかしそうだと仮定するならば、輝夜の並々ならぬ強さにも合点がいく。 「何の話だよ……!」  竜巳が声を上げるも、輝夜は意に介さない。不安げな面持ちのまま輝夜と風早の顔を何度も交互に見遣ったが、二人とも竜巳に目をくれることさえなかった。 「俺は、天下の鬼丸がし――」 「うるさい、分かっている。承知の上で連れてきた。他人にどうこう言われる筋合いはない」 「だが」 「こいつの件はあまり広めるなよ。……行くぞ」  にべもなくそうまくし立てると、輝夜は立ち上がって歩き出してしまった。 「え? あ、待てよ……!」  また頭の整理の追いつかない竜巳は一先ず風早に礼をし、魚籠を抱えて師の背を追いかけた。  一人残された風早は、困ったように眉根を寄せて二人のその背を見送った。 「黙ってるけどよお……これじゃあすぐに見つかっちまうと思うぞ……」  彼の呟きは風のせせらぎの中に消えていった。  帰宅してから、輝夜は目に見えて不機嫌だった。竜巳も同様である。魚を竹で作った串に刺して囲炉裏で炙りながら、二人無言でその様を見ていた。言葉は無かった。  騙された――竜巳の憤りは留まることを知らない。  ここがどこであるか知っていたら、安易に留まろうとはしなかった。 まさかここが忍の里で、彼自身が忍だなど考えもしなかった。誰が予想したであろうか。問題は里に迷い込んだただの人間の末路である。その場所を知ってしまった以上生きては返されないと聞いている。命を救われたというのも勘違いだったのだ、と落胆した。  そして落胆する己に驚いた。  最初、彼は狐狸の類が出るゆえに外に出るなと言った。実際は闖入者である竜巳を逃がさぬ為の虚言だったのだろう。 彼はどんな思いで竜巳に接していたのだろうか。従順に言うことを聞く姿を、躊躇いなく身体を明け渡すのを嘲笑っていたのだろうか。 そう思案してしまえば、怒りよりも悲しみや切なさが勝った。 「食わんのか」 終始無言を貫いていた輝夜が言う。囲炉裏の炎を受けてちかちかと輝く琥珀色の瞳と視線が交差した。その手には程よく焼けた岩魚の串がある。 「…………食う」  一瞬の逡巡の後、思考が暗いのは腹が減っているせいだと決め、採れたばかりの魚を貪り食った。鮎や岩魚は美味かったが、少しだけ塩気が強かった。 「……なあ」  意を決して輝夜の方を見る。 「あんた、忍だったのか」 「――そうだ」  輝夜が嘆息と共に呟く。竜巳は少しだけ全身の毛が逆立つのを感じた。 「なんで俺に言ってくれなかったんだ?」 「言う必要が無いと思ったからだ」  話はそこで終わりだと――そう言わんばかりの態度に、竜巳は苛立ちながらも閉口した。 「そんな……! 俺、知ってたら弟子になんてならなかった! 悪いけど、出ていく!」 「道を知っているのか」  土間まで降りた竜巳の背に、輝夜が声を投げかける。 「行く当てはあるのか。無計画は身を亡ぼすぞ」 「そんなの、町に降りてから決めてもいい」 「やめておけ。本来、この辺りには村に外の人間が入らぬよう見張りが立っている。俺なしでは生きて帰れんだろう」 「……なんだって……⁉」 「見つかれば殺されるのが関の山よ。おとなしく、俺の弟子でいろ。その間は命を保証してやる」 「っ、どうしてそこまでして俺を……!」  竜巳は歯噛みした。 「そうだな。お前が居ると愉快だからだ」  屈託なく輝夜は言う。竜巳は言葉を失った。  ――殺される前に、逃げなくては。 竜巳は心に決めた。  こんなところで死んでたまるか。  弟子に、と言い出したのは自分だが、それ以前にこの土地に運んできたのは輝夜だ。ここがどこかを知っていれば、弟子になどならなかった。あれほど外に出したがらなかったのも、伊織や風早を口止めしたのも、竜巳の存在が知れ渡らぬようにするためだったのだろう。  では、存在が公になったらどうなるのか。  考えただけでぞっとして、竜巳は魚を貪ることに集中した。  あの男に復讐するまで、死ぬわけには行かないのだ。

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