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第15話
翌日、竜巳は畑で獲れた野菜から土を落としていた。昼餉の時間である。今日は猪汁の予定だが、夜遅くに仕事に出ていった輝夜が帰って来る様子が無い。普段、竜巳はは昼餉など食さないのだが、朝餉を抜いた仕事帰りの男の為に料理を開始した。ちなみに昼餉はそのまま夕餉に持ち越されることが多いので、分量に気を付けなくてはならない。
慣れた手つきですとん、すとんと野菜を切り終えるとほぼ同時に、不意に入り口ががらりと開いた。輝夜が帰ってきた――と思ったのもつかの間、顔を出したのは見覚えのある別の人物である。
「よう竜巳! 輝夜はいるか?」
そうやってにかっと笑ったのは、あの快活な少年、伊織だった。相変わらず崩れた着流し姿で、徳利などをぶら下げている。心成しか頬も赤く、酒の匂いもした。
「いや、まだ帰ってない。上がっててくれ、茶でも入れるよ」
「おお、悪いな! いやあ竜巳は本当にいい嫁さんになると思うんだがなあ」
「……あんた相当酔ってるだろ」
ぶっきらぼうに返して、竜巳は野菜を切る手を止めた。
土間から囲炉裏に移動して、胡坐をかいて座った赤ら顔の男を見て、酔いには水の方がいいのだろうかと考えつつ、仕掛けられた鍋から湯を汲んで茶を淹れる。温く注いだ茶を渡すと、伊織はぐい、とそれを煽った。
隣でその横顔を見ながら、竜巳はぼんやりと思う。
「……あんたも忍なんだよなあ」
「ぶっ!」
思わずぽつりと呟くと、伊織が勢いよく茶を噴き出した。
「な、なんだ急に! いやいや、俺は通りすがりのその辺の町人で……」
「へえ、何の職に就いてるんだ?」
「…………茶、茶を作ってる……!」
だらだらと妙な汗を流す伊織を見て、竜巳が苦笑する。やはり輝夜に言い含められていたのだろう。
「いいよ。全部じゃないけど、輝夜に聞いた。ここ、忍の里なんだってな」
「はっ⁉ そうなのか? なんだあいつ、あんなに口止めしておいて……」
伊織が何事かぶつぶつと呟くのを見ていると、伊織は焦ったように胸の前で両手を振った。
「いや、いやあでもまあ忍だからといって怯えるこたぁないぞ。特に輝夜、あいつはお前にのぼせ上がってるからなあ。ひどいこたぁしねえよ」
その言葉には同意しかねる。竜巳は不審げに伊織を見つめた。
「そんな目すんなよ、本当だって!」
「そうか? 十分ひどい扱い受けてる気がするんだけどな……」
炊事だなんだとこき使われ、気まぐれに身体を暴かれ――、思い返せば思い返すほどひどい扱いを受けた記憶ばかり蘇る。だが、時折見せる優しさがあるのも事実で、それが余計に竜巳を困惑させるのだった。
「馬鹿言えって、あの鬼丸が小僧相手にこんなに世話焼いてるなんて誰も想像できねぇよ」
「そういうもんか? 確かにあいつ、俺を世話するとき生き生きしてたけど……」
竜巳は思い当たってはっと目を見開いた。
「もしかしてあいつ、女より稚児の趣味なのか?」
「いやいやお前限定。自覚しろよ、これだからガキはよお」
「でも、のぼせ上がってる相手にすることじゃないし、やっぱりあんたの気のせいだと思う」
「だから、それが鬼丸の限界なんだろうよ」
やりとりを何の気なしに聞き流していた竜巳だったが、ふと気にかかって首を傾げた。
「前々から気になってたんだけど、その鬼丸ってなんだ?」
伊織は溌剌とした目をぱちくりさせた後、よくぞ聞いてくれたとにぱっと笑った。
「輝夜はなあ、凄いんだぞ! 俺の憧れ――いや里中の皆の注目の的なんだ。男も女もみーんな輝夜に憧れてる」
「どうして? 美人だからか?」
「あー……まあ、それもある。ただ、何より強い。ガキの頃から誰にも負けたことが無くってなあ……守りたいヤツがいるんだと。そいつの為に体張ってたら、里じゃあ一番の忍になっちまった。それで、鬼のように強い、ってんでいつの間にか鬼丸なんて呼ばれるようになったのよ」
「ふうん」
そう語る伊織の顔はきらきらと輝いていて、曇りなく真っ直ぐだった。どれだけ輝夜を尊敬しているかが伝わって来るようだった。
「……伊織は輝夜が好きなんだな」
「ん? まあ兄貴みたいなもんだからな、そりゃあ好きだぜ。竜巳は輝夜が好きじゃないのか?」
竜巳は言葉に詰まった。
「世話、焼いてもらってんだろ。弟子にしてもらってさ」
尋ねてくる伊織の瞳に邪な感情など見えず、余計に困惑した。少し視線を彷徨わせてから、呟く。
「……普通」
そう答えた竜巳に、伊織は「素直じゃねえなあ」とけらけらと笑った。
「あいつなりに頑張ってるんだ、少しぐらい絆されてやれよ」
もうすでに絆されているのかもしれない、と思う。雑務をこなすのはまだしも、あれだけ手ひどく抱かれて尚、あの男を憎むことが出来ないのだ。
二人そろって竜巳を騙した。易々と心を許してなるものかと――そう思うのに、心のどこかに二人を妄信したいと願う自分がいる。それぐらいこの家は居心地がいい。
「……おい、竜巳? 顔色が悪いぞ」
「へ?」
ずい、と伊織の顔が近づき、額に手を当てられた。
「あいつしつこそうだもんなあ……また一晩中抱かれでもしたか」
「ばっ、ちがっ!」
頬を真っ赤に染めたその瞬間、土間の板戸ががらりと開いた。
「今かえっ――何をしている!」
両手に荷物を抱えた輝夜が声を張る。後半は地の底から響くように低い声だった。輝夜はぎろり、と竜巳の横、伊織を睥睨(へいげい)した。そしてずんずんとこちらに歩み寄ってきたと思うと荷物を投げ捨てて、竜巳の肩をぎりりと掴み、伊織から引き離した。
そして草履のまま筵に上がると、目を泳がせる伊織の胸倉を掴んだ。
「お前、今あいつに何をしようとした」
「ち、違うんだって! 誤解だ輝夜! 竜巳の具合が悪そうだったからちょっと近づいただけじゃんかよお!」
冷たい目を向けてくる輝夜に、伊織はぶるぶると震えながら弁明した。ちら、と輝夜の視線が竜巳に移る。竜巳は静かに首を横に振った。
「本当だぞ、伊織は俺を心配してくれただけだ。あんたにひどい抱かれ方して大変なんじゃないかってさ」
あてつけのように言うと、輝夜はちっと舌打ちをして伊織を解放した。伊織はほうと安堵の息をついている。竜巳は過保護が過ぎるな、と嘆息した。
輝夜は度々、予想だにしないことで怒り出した。沸点が低いらしく、特に竜巳の動向には過敏で、こうして伊織と戯れることさえ嫌う節がある。まるで己のすべてを支配したいとでもいうような態度が、竜巳には不思議でならなかった。
「……そんなことよりも」
輝夜は嘆息すると、放り投げてあった大きな風呂敷包みを拾い上げ、どん、と置いた。包みを解くと、中からいくつもの男物の着物が現れる。
竜巳と伊織がそろって「おお」と声を上げた。輝夜は満足げに頬を緩める。
「そろそろ冷え込んできたからな。お前のものを調達してきた」
「俺にも?」
そう言いながら、輝夜は広げた一枚を竜巳にあてがう。
竜巳は目を丸くして受け取った。紺色の着物は生地も厚く、暖かそうであった。
「……悪い。ありがとう」
「いや」
どれも紺や藍といった竜巳の好む色合いで、小粋な柄の入ったものもある。竜巳は純粋に感謝した。
「気に入られてるなあ」
「黙れ」
輝夜が伊織の頭を引っぱたくと、伊織はけらけらと笑った。仲がいいのだなあと着物を漁っていると、一枚だけ、明るい色合いの布地を見つけた。
引っ張り出してよく見れば、山吹色に小さな花が散っているのが見えた。
「これ……、女ものじゃないか。誰かに贈るのか?」
薄い黄色を広げて驚いた竜巳に、輝夜がにやりと笑い、言い放った。
「お前によく似合うと思って買ってきた」
ふん、と満足げに言うのを見て、竜巳はあんぐりと口を開けて硬直した。
「……は⁉ 俺は男だぞ」
「いやというほど知ってるさ」
くつくつと笑いながら、清楚だが男が着るには派手な色合いのそれを肩にかけてくる。まじまじと眺めてから、輝夜はにや、といやらしく笑った。
「ああ、やはりよく似合う」
「似合うって……」
「うん、流石輝夜の見立てだ。悪くないぞ竜巳」
「あんたまで……!」
神妙な面持ちで伊織が言う。「これならアリだな……」と呟いた伊織の頭を、輝夜が拳で殴りつけた。鈍い音と共にうめき声が聞こえて、伊織はぶたれた頭を抱えこむ。
顔が赤くなっていくのが分かる。女ものの服が似合うと言われても困惑するほかない。同時にこっぱずかしくてならなかった。
「黄色がよく映えるな」
「……おだてても着ないからな」
「いいさ。俺の自己満足だ」
輝夜が嬉しそうに、どこか儚く笑う。花のほころんだような微笑みにはっと息を呑んだ。
「……そ、そんな顔されても……」
「何だ? 着るのか! 帯なら結んでやるぞ!」
「い、いいよ!」
まあいいか、と思ってしまうのは、彼らに絆されているが故なのだろう。ひどく和やかな雰囲気が流れていた。昨夜までの殺伐とした空気が嘘のようで、少し心が軽くなる。
「いやほんと、似合うと思うんだが……」
くすくすと笑いながら、輝夜は本気とも冗談ともつかぬことを口にした。
竜巳は少しそっぽを向いてぶすくれて見せて、つかの間の安息を満喫した。
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