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第16話
どたどたと床を踏み鳴らす音が響き渡る。
その凍えるような寒さの日の午前、竜巳は輝夜に道場の水拭きを命じられていた。当然、桶に汲んだ水は冷たく、指先から手首までを腫れたように赤く染め上げた。
雑巾をきつく絞り直して四つん這いになり、床を行ったり来たり走る。身体の末端は冷え切ってしまったが、身体は汗を滴らせるほどに暑い。後で身体を拭かねば風病を患ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら額の汗を拭った時、居間の方から「おい」と呼ぶ声がした。
「……今行く」
今度は何の用だろうか。
雑巾を桶に放り投げて、居間の方へ駆け寄る。
板戸を引いてそっと覗くと、どこからか文机を取り出した輝夜が何やら書き物をしているところだった。
書面から顔を上げた輝夜が竜巳を見やって問う。
「お前、読み書きはできるか」
「……あまり」
早くに親を亡くした為に、手習い所に通う余裕などなかったのである。
竜巳がばつの悪そうな顔をすると、「そうか」と呟いた輝夜はおいでおいでをするように手招いた。訝し気に小首を傾げながら輝夜の許に歩み寄り、その隣に座る。
輝夜は新しい紙を広げると、竜巳に筆を握らせて場所を譲り、その背後にまわった。
「もしかして、教えてくれるのか?」
背中と輝夜の身体がまるで背後から抱きしめられたように密着する。上から覗き込んでいるらしく、耳のすぐ傍で吐息が聞こえて、ぞくりと肌が粟立った。
「ああ。ここで書いて覚えると良い」
「どうして急に……」
「無論、お前の師だからだ」
竜巳の唖然とした表情に、輝夜はふっと笑った。
「あ、でも道場の掃除がまだ終わってなくて……」
「そんなものいつだっていい。……そうだな、あとで習いの見本を用意してやろう。今日は簡単な字から覚えると良い」
そう言って、不格好に握りしめたままの筆を持ち直させられる。
輝夜は竜巳の指に自らの手を重ねると、墨を付けて紙の上に一本の線を走らせた。それから円を書いたり、うねうねとのたくった線を書いたりする。竜巳が緊張する様を見ていた輝夜はいたく楽しそうで、ずうっとくつくつと笑っていた。
――与一みたいだ。
竜巳はふとそう思った。
幼い日に、与一は習ったばかりの字を地面に書いて教えてくれた。これはいぬと読むのだとか、やまと読むのだとか、楽しそうに教えてくれたのを覚えている。
ふ とした瞬間、与一のことを思いだしてしまう。その度に、己にとって与一と言う人物がどれだけ大きな存在なのかを思い知らされた。
与一に会いたい。
その為にはここから逃げ出さなくてはならない。
生きている限り、いつか再び巡り合うことが出来るかもしれないのだ。
「!」
「…………」
輝夜のもう片方の骨ばった手が、ぼうっとしていた竜巳の髪を弄ぶように触れる。
頭を撫でつけられ、ぼさついた結い髪を指で梳かれた。
「なんだよ」
「別に」
輝夜はこうして事あるごとに竜巳に触れたがった。全てが情事の予兆というわけでもなかった。ただ愛しい者を愛でるように触れてくるのだ。ともすれば何かとんだ思い違いをしてしまいそうで、竜巳は常にだんまりを決め込んでいた。
「……?」
その時ふと、筆を操る輝夜の手が止まった。不審に思って背後を振り返ると、男はじっと竜巳の髪の先端を見ていた。
「お前は何故、髪が長いのだ?」
「は?」
「動き回るには邪魔だろう? 不思議に思ってな」
得心した竜巳は一瞬視線を彷徨わせてから、ゆっくりと口を開く。そしてぶっきらぼうに答えた。
「昔、俺に親が居たころ、この髪の毛を綺麗だって言ってくれる人がいたんだよ」
「――へえ」
「その人とは子供の時に別れて、でも、もし会えたら、褒めてくれた髪を見れば思い出して、見つけ出してくれるんじゃないかって……」
そこまで話して、一時の感傷から我に返った。
「ま、まあこんなにぼさぼさじゃあ意味ないけど、思い出みたいなもんなんだよ。……女々しくて悪かったな、嘲笑(わら)えよ」
「髪を、な。……女か?」
「違う、男だ。……綺麗だったけど」
与一は愛らしく美しかった。そう思い出に浸る竜巳の耳に、「そうだった」と間の抜けた輝夜の声が響いた。
「ああそうか、お前はまだ女と寝たことがなかったのだったな」
「!」
揶揄うようにして輝夜は笑う。怒鳴りつけようと背後を振り返って、輝夜のそのあまりに穏やかな微笑みに勢いを削がれてしまった。
思わず呆気にとられていると、輝夜が再び竜巳の頭を撫でた。
「髪など気にせずども、気づけると思うがな。――お前と違って」
嫌味を帯びた言い草に、竜巳がいささかぶすくれて口を開いた。
「根拠のないこと言うなよ。少しでも確率が上がるなら越したことはないだろ」
そう言いきってから、ふんと鼻を鳴らして輝夜を睨み付ける。
「切らないのか」
「切らない。その人に会えるまで、絶対」
「……そうか」
決意をはらんだ双眸が輝夜を射抜く。同じ蜜の色をした瞳を持つ二人の視線が交差した。
先に目を逸らしたのは竜巳の方だった。
「なあ、そんなことより字、教えてくれ」
「ああ、そうであった」
文机に向き直った竜巳を見た輝夜は、それを、どこか物悲しそうな目で見つめていた。
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