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第17話
秋も深まり、朝晩と冷え込むようになった。竜巳はおとなしく輝夜が手に入れた着物に手を通して日々の寒さをやり過ごす。襟巻は必需品だ。帯をきっちりと結ぶなど幼少期以来だが、なかなか覚えているものである。
輝夜と過ごすうち、段々と彼の一日一日の行動が分かるようになっていった。例えば、深夜に仕事に出かけた輝夜は昼まで帰らない。その代わり仕事の無い日には書物を読んだり、少しの畑を耕して一日を過ごしている。そうして日が沈むとともに眠り、日が昇るとともに目覚める、といったような生活を送っていた。
彼が不在時にも油断はできない。どこで見張っているのか、散歩だと少し家を離れたことさえ悟られてしまう。表情や態度にでも喜びが滲んでいるのだろう、竜巳は己の単純さを呪った。
稽古の他に字を習い始めて三日、その日の竜巳は一人で文机に向かっていた。輝夜に教授を受けた字をさらっていたのである。輝夜はと言うと、町で仕入れた新しい煙管をふかすでもなく眺めていた。これで五本目だ。彼には少しばかり収集癖があるのが見え隠れしている。
「……なあ、あんたの仕事って殺しだけか」
手習いに飽きた竜巳は、不躾なのを承知で問いかける。輝夜は煙管から視線を外し、うーんと考え込みだした。
「どこぞの旗本とその取り巻きの護衛を務めることもあるな。大体は名の知れた忍だ。俺のような者には回ってこない」
「侍を守るのか? あいつら自分の身も守れないのか」
素っ頓狂な声を上げると、輝夜は確かに、とくすくすと笑った。
「俺はもっぱら殺しだがな。夜な夜な出歩いているのはその為だ」
「……山賊狩りも仕事か?」
「ああ、あれは小さな村からの依頼だったようだな。あの辺りは宿場町だろう。お前らのせいで商人どころか旅人さえ通らなくなってしまったと」
「そうだったのか……随分昔のことみたいだ」
竜巳は当時のことを思いだして大きく嘆息した。生きていくので限界だったあの日々に比べれば、ここでの生活はぬるま湯に浸かったようだ。本当にこれでいいのだろうか、と不安さえ覚てしまう己が居る。
「なあ、ところでここの集落ってどうなってるんだ? 近くに家が一つもないじゃないか」
「それは――言うなれば俺がまがいものだから、だな」
輝夜がついと目を細め、指先で煙管を弄ぶのをやめた。竜巳は小首を傾げる。
「俺には化け物の血が混じっている。だからまあ、村八分とは言わないが端に追いやられている訳だ」
「化け物……? いや、でも道場があるぐらいだから、親父さんは教える立場に居たんだろう?」
「……そうだな。その親父も化け物だった。まあ俺が化け物で爪弾きにされているというのは、理由の一つに過ぎないのだが」
竜巳は筆をおいて、輝夜に向き直った。興味津々のその様子に、一瞬輝夜が苦笑する。
「一番の原因は、幼い頃の俺が外の人間を里に連れてきてしまったためだ」
輝夜はにたり、と不敵に笑ってそう語った。竜巳は眉根を寄せる。
「外の人間を……? ってことは」
「ああ、俺は二度目の過ちを犯していることになるな」
小さく笑った輝夜に、竜巳は気が気ではなくなる。「無論、お前もただではすまんぞ」と言われ、思わず真面目に身を固くした。ならば早く解放してくれと頼んでも、この男は聞かないのだろう。この男の暇つぶしに付き合うふりをしなくては、契機など訪れない。竜巳はそういえば、と口を開く。
「……でも、伊織はみんな輝夜に憧れてるんだ、って言ってたぞ」
輝夜はその言葉に虚を突かれたような顔をして、大きく嘆息した。
「あのバカ、お前とどんな話をしてるんだ」
「殆どあんたの話。伊織は輝夜を尊敬してるみたいだったけど……違うのか?」
輝夜が柳眉(りゅうび)を寄せて腕を組む。言い回しに困っているようだった。
「ここは忍の里だ、強さに憧れ、俺を羨む者もいるだろう。しかしそれを表に出すのは不味い。いわば俺は罪人だからな、手を貸せばそいつも同類と見られる。ここで俺と必要以上に関わろうとする馬鹿はあの男ぐらいなものだ」
竜巳は当初、輝夜が伊織について「こいつは例外だ」と言っていたのを思い出す。合点がいき、成る程、と何度もうんうんと頷いた。
同時に思案する。こんな色男が独り身でいるわけはこの話に由来しているのではないか、と。
そんな竜巳を見て、輝夜がにやりと不敵に笑う。
「最近なんだか忙しないじゃあないか、お前」
「へ?」
「まさか己から弟子入りしておきながら、ここから逃げ出そうなどと考えてはおるまい」
竜巳は硬直した。
「残念ながら俺はしつこい男だぞ。お前を鍛え上げるまで帰してやるつもりはない」
図星を食らった動揺を隠し、慌てて言葉を紡ぐ。
「逃げるなんて、そんなことするわけ……」
「まあ、返す前に命を落とすかもわからんな。里の者はよそ者を嫌う。侵入者だと思われてしまえば一刀のうちに切り伏せられて死ぬだろう。自分の身を守るためにも、できるだけこの集落の端で我慢しておくことだな、くくく」
「っ……!」
全く笑いごとではない。
くすくすと笑う輝夜に反し、竜巳は真っ青になった。同時に疑問を覚える。輝夜は竜巳というよそ者を厭うていない。彼もまた、伊織のような例外なのだろうか。実は心優しい男なのではないだろうか。
そこまで思い至り、既にこの男に絆された己に気づいて、慌てて我に返る。
――逃げ出すならば早急な方がいい。
「そんなことよりも、今夜、伊織が酒と肴を持って酒盛りに来るそうだ。飯の準備を忘れるなよ」
「……分かった」
試すような視線を投げてよこす輝夜を一瞥し、竜巳は唇を噛んで手習いに戻った。
月の欠け闇の広がるその日の晩は、随分と賑やかだった。
「あっはっはっは! 酒だ酒ぇー! 竜巳、酒持ってこぉい!」
「おまえな……人の家の酒を空ける馬鹿がいるか。おい、持ってこなくていいぞ」
稽古ともろもろの雑務を終え、土間で炊事に精を出していた竜巳は、ふつふつと煮たち始めた竃(かまど)の鍋の中の燗(かん)を見て眉をひそめた。
「ああもう、もうあっためてるとこだよ」
「くそ、遅かったか」
「いいじゃねえかよ~、輝夜も竜巳ももっと飲めよ~」
そう声を荒げた伊織の呂律は上手く回っていなかった。
「……どうしたらいいんだ」
居間では泥酔した伊織が、静かに猪口を煽る輝夜にくだをまいている。辺りには徳利やら酒樽やらが散乱していた。屋内は熱気に包まれ、かすかな隙間風が心地いい程であった。
「放っておけ。ほら、お前ももう落ち着いていいぞ」
「ああ」
輝夜に手招かれ、たすきを外して囲炉裏を挟んだ二人の向かい側に座る。輝夜が一瞬不満げに目を細めたが、酔っ払いに絡まれたくはない。落ち着いて見えつつも、輝夜の目が座っているのを竜巳は見逃していなかった。
「なんだよ竜巳~、おら注いでやるから飲めよ~!」
「いや、俺は別に猪鍋で十分で……」
あえて離れて座ったというのに、燗を引っ提(さ)げた伊織がよろめきながらやって来た。全身から酒の匂いがする。断るに断れず猪口を受け取り、酌をしてもらった。
「そーら飲めぇ!」
「う……」
隣にどっかりと座り込んでしまった伊織が、輝かんばかりの笑顔で竜巳を見ている。酒を煽るのを待っているようだ。
じっとりとした目を向けてくる輝夜と破顔している伊織とを交互に見遣り、一瞬躊躇ってからぐい、と煽った。
やるじゃねえか、と酔っ払いが竜巳の背を力の加減なくばしばしと叩く。むせ返りそうになりながら嚥下すると、強い酒の香りが鼻の奥から抜けていった。思わず顔をしかめる。竜巳はあまり酒が得意ではなかった。
「なんだ、飲めないのか」
輝夜が手酌しながら鼻で笑う。ぐっと言葉に詰まり、歯噛(はが)みした。
「別に弱いわけじゃないぞ、あんまり好きじゃないだけで……」
言い募(つの)れば言い募るほどに輝夜の笑みが深まっていく。
いたたまれなくなり、伊織に助けを求めようとして――絶句(ぜっく)した。
「……くー……」
「は……?」
静かになったかと思えば、その場で大の字になって眠っていたのである。両手にはそれぞれ猪口と燗が握られたままであった。
唖然とする竜巳の前で、輝夜がふうとため息をついた。
「全く、弱いくせに水のように呑むからだ」
輝夜はやれやれと言いながら手酌をし、自らも頬を赤くしながら酒を煽った。普段は白い肌が高揚して赤く染め上げられた様(さま)は、妙になまめかしく艶(あで)やかであった。先日の情事が脳裏を過る。かあっと頬が熱くなるのを感じながら、慌ててそれを頭の隅に追いやった。
「おい」
輝夜の声で我に返った。
見れば猪口を片手に手招きしている。普段は蜜のようなきらめきを持つその眼はどんよりと濁っていて、焦点が定まっていないように見えた。
「何をぼけっとしてる、こちらへ来い。師の命令だぞ」
完全に酔っぱらっている。
竜巳はう、と言葉に詰まり、すっかり寝入っている伊織を見た。起きそうもないので、仕方なく傍にあった筵をかけてやり、いそいそと輝夜に歩み寄った。人が一人入りそうな距離に座った。
「わ……!」
「……眠い」
腰を落ち着けた途端、輝夜が肩にしなだれかかってきた。そのまま身体を委(ゆだ)ねられ、竜巳の太腿に倒れ込む。
竜巳はひどく狼狽(ろうばい)した。
「おい、輝夜……!」
輝夜は太腿の上で落ち着く寝相を探してもぞもぞと動き回っている。やがていいところに収まったのか、目を閉じたまま仰向けになった。
「……肉の薄い身体だ。もっと食わねば」
「女じゃないんだからこれでいいだろ」
皮肉を込めて言ってやったが、なぜか自分の胸までちくりと痛んだ。
――なんだ、この胸の痛みは。
竜巳は心のざわめきを黙殺して、端正な男の顔を見下ろす。目鼻立ちのしっかりとした、妖艶な男。目元の黒子がそれを一層引き立てており、女子が群がらぬはずがない。妻を娶ってもいい年であろうが、果たしてどのような女を選ぶのだろう。似合いの美女だろうか。この男の我がままに耐えられる者でなくてはなるまい。
そもそも、すでにいい女の一人や二人、いないのだろうか。
そうとりとめのない思案を巡らせていると、琥珀の色をした瞳がゆっくりと瞼の下から姿を現した。
とろけた蜜が、今にも瞼の下から溶け出してしまいそうな甘さをはらんでいる。そして輝夜はたどたどしく言い放った。
「――逃げるなら今だぞ?」
「っ」
にやり、とぞっとするような微笑みを浮かべ、輝夜は甘く(あまく)囁いた。
何を言っているのだろうかこの男は、と思った。
泥酔しているとはいえ二人そろって忍の者だ。逃げ出したところで捕まるに決まっている。余程竜巳を阿呆と思っているのか――それとも戯(たわむ)れのつもりなのか。
「いいや、やめとく」
竜巳は首を横に振って、そっと輝夜の額を撫でた。
一瞬だけ目を向いた輝夜だったが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべて目を閉じた。
「俺は酔っぱらった師匠の面倒を見なくちゃならないから」
「……そうか」
ぽつり、と静寂の中に柔らかな声が落ちる。
「……勝手に出ていくのは……許さんぞ……」
「……! ……分かった」
竜巳は目を丸くして、そっと輝夜の頭を撫でる。自然と頬が緩んだ。
本音をこぼす輝夜はどこか幼く見えた。可愛らしいと思ってしまうのだから妙だ。己も酒にやられてしまったのだろうか。
それから間もなく、すうすうと輝夜から寝息が聞こえ始めた。
「本当に寝たのか……?」
竜巳はそこでようやっと自分の身動きが取れない状況に気づく。
困惑したあと苦笑して、その晩、己が眠りに落ちる直前まで、艶やかな輝夜の髪を撫で続けた。
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