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第20話

 明朝、秋晴れの日。竜巳は道場と土間を掃き清めた後、井戸の水で洗濯をした。それを土間に干してから、身支度を整える。荷物は最低限に留め、余分な衣類は端に寄せ置いた。風呂敷には何も入っていなかった。 それから土間からひょっこり顔を出し、輝夜がいないのを確認して――夜逃げするように家を出た。 澄み渡った空の中天を超えて、燦燦と陽光が降り注ぐ。遠くに真っ二つに割れたような十日月がぼんやりと浮かんでいる。 竜巳は決意も新たに、外の世界に戻るべく足を一歩踏み出した。  この家の裏を進んでいけば村に出る、伊織はそう語っていた。山道には慣れている。人が通った後を探すことなど容易い。  逃げ出す機会を伺って十日月。ようやっと運が回ってきた。そう思う自分は確かにいる。だが同時に、不義理を果たしていいものか、と己の心に問いかける自分がいた。  当初、輝夜はすぐ己をここから解放しようとした。それを跳ねのけ、弟子入りを志願したのは竜巳なのだ。真実を語られていなかったとはいえ、己が決めたことから怯えて逃げ出すなどあるまじきこと。そんな思いが竜巳を苛んでいた。  しかし、こんなところで死ぬわけにはいかない。山で他の忍と出くわす可能性も考えなくてはならないが、伊織の言葉が脳裏を過る。――結句、輝夜をよく思わぬ連中に殺されるかもしれぬ、と。 「……あ」  家から数歩離れたところで、ぴたりと足を止めた。今の己が無一文であったことを思いだしたのだった。 「……拝借するか」  そう思い立った己の根はどうあがこうとも盗賊なのだと思い知らされる。竜巳は自嘲しながら踵を返した。  もう目にすることもないであろうと思った景色を前に、後ろめたさが積み重なってゆく。 土間を抜けて居間へと上がり、隅に置いてある箪笥を漁った。輝夜が金子を隠すのはいつもこの箪笥のいずれかであった。  刀の刃、どこかの社の札、書状、薬箱――上段から順に開けていくが、めぼしい者は見当たらない。普段であれば直感で得られるはずのものが見つからず、いら立ちが募る。  やがて最下段の右端の引出しに手をかけて、輝夜は動きを止めた。妙な感覚がしたのだ。  そこは普段、開けているのを見たことがない箇所であった。 「…………」  ――直感が警鐘(けいしょう)を鳴らした。 開けてはならぬ――いや、見てはならぬ、と。しかし、それで引き下がっては盗人の名が廃る。竜巳はゆっくりとその取っ手を引いた。 「……?」  ひっそりと形を潜めるようにあったのは、古びたぼろ布だった。うっすらと格子の模様が見える。全体に滲む様に血がこびり付いていた。  ――竜巳の脳裏を遠い日の記憶が過る。 『ありがとう』  仕草、微笑み方、目元の黒子、白い肌、どこか達観した態度――。  幼い美しい少年の姿が、己の師と決めた男と重なる。それはあってはならぬ合致であった。 竜巳はその布に手を伸ばし、まじまじと見た後、――その場にへたり込んだ。  これまでの感覚は嘘ではなかった。己こそただしかったのだ。 「――――与一」  その布の端切れは、確かに竜巳が与一に手当を施した時に引き裂いた、己の着物と同じ模様だった。 竜巳はぼろ布を握りしめたまま、頭を殴られたような衝撃に呆然と立ち尽くした。  ふつふつと沸き上がって来たのは純粋な怒りと、哀傷の混じった矢張りという感情だった。 「輝夜が、与一……」  以前から勘ぐっていた。あの男と雅兄(がけい)を重ねる己が居た。確信していて、目を背けていたのかもしれない。柔和で整った顔立ちと、あの黄昏時の空の色の瞳。そうそう存在するものではない。ただ確証が無かった。  探し求めていたものが、今、この手の中にある。 「どうして……輝夜」  竜巳ははっと我に返り、慌てたように立ち上がった・  輝夜に会わなくては。話を聞かなくては。  ここから逃げ出すという思いは消し飛んでいた。  最初から気づいていたのだろうか。だから救ってくれたのだろうか。ではなぜ、己が与一であることを隠していたのだろう。己と別れてから、何があったのだろう。 ――どうして己を抱くのだろう。 輝夜ではなく、与一に尋ねたい。 竜巳は慌てたように立つと身を翻し、そのまま勢いよく家を飛び出した。

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