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第21話

息を弾ませながら、家の裏の獣道を駆け下りゆく。地面には紅葉した葉が落ちて咲き乱れ、視界が毒々しくも寂れた赤に染まっていた。  喉がひゅうひゅうと悲鳴を上げる。酸素の欠乏した頭に思い浮かべるのは、輝夜の姿ただ一つだった。  輝夜に会いたかった。会って問い詰めるのだ。 与一と再会していた。己の悲願はとうの昔に達成されていたのだと思うと、痛みを伴うほどに胸が弾んだ。輝夜にならば、与一にならば騙されようと構わない。竜巳にとって与一は己を支える何より大切な存在だった。  そこまで思い至って、では今はどうなのだろうと考える。輝夜に出会ってから、与一の記憶に縋(すが)ることが少なくなっていた。  ――佐平のことなど、すっかり忘れていた。  あれほど憎み、復讐してやると意気込んでいた自分はどこに行ったのだろう。いつしか夢に出ることも無くなってしまっていた。  道を塞ぐ苔むした大岩を乗り越え、自分の背丈より高い位置から着地する。身体は訛っていないようだ。  己は一体何をしているのだろう。  散々甘やかされ、輝夜の世話になっておきながら、こうして逃げだそうなどと――短慮が過ぎる、と自嘲した。己の未熟さと幼さを思い知らされたようである。  佐平よりも優先すべきは与一――輝夜だ。なぜこんなにも彼に執着してしまうのかは分からない。ただ一つ確信したのは、幼い頃の己は与一を本気で慕っていたのだということだ。あれが初恋、というものだったのかもしれない。 「輝夜……」 ゆっくりと足を止め、肩を上下させて膝に手をつく。  どれだけ走っただろう。人里へ下りれば輝夜を出迎えることが出来るだろうか。それともやはり家で待つべきだっただろうか。いや、しかしあの場でただじっと帰りを待つことなど到底できない。焦れた竜巳の右手にはあのぼろ布が握られたままである。 輝夜は意地悪だ。真実を話すとは限らない。あの男の不敵な笑みを思い浮かべ、思わず苦笑する。それが今の『与一』であるならば、竜巳は一向に構わない所存であった。 とにもかくにも輝夜と話がしたい。 再び勢いよく走り出したその時、うなじの辺りをひゅっ、と何かが通り過ぎた。 「?」 竜巳が振り返ろうとしたその刹那、足元にざくりと何かが突き刺さった。 視線を落とす。突き刺さっていたのは――手裏剣と呼ばれる類のものであった。 「ああくそ、外しちまったな」  そんな低い声が聞こえると同時に、数間(すうけん)先にある木々が揺れ、さっと音もなく上から何かが落ちてきた。 「⁉」  竜巳はぎょっと目を剥いた。忍び装束に身を包んだ男の齢は三十前後だろうか、頭巾を纏わず頭部をさらけ出している。前髪を後ろに撫でつけて結わえた黒の長髪に、人のいい笑み。竜巳はその人物に見覚えがあった。 「久方ぶりだなぁ、輝夜んとこのお嬢ちゃん」 「……あんたは……」 「覚えてるか? 川原で会ったろ。風早だ」  風早は不適に笑って目を細めた。 「もちろん覚えてる。ちょうど良いところに。なあ、輝夜のところに連れて行ってくれないか?」 「ああ?」  ふう、と安堵の息を吐いた竜巳を見て、風早は眉根を寄せた。 「何いってんだ?」 「あんた、俺を見張るよう輝夜に言われてたんだろ? だからこうして――」 「はは、なわけあるかよ」  風早が喉の奥でくつくつと笑った。竜巳は訝しげにその様子を見ている。以前に比べ敵意にも似た邪悪な気が放たれていることに気づき、無意識のうちに身を竦(すく)め後ずさった。 「俺ぁ、長の命令で来たのよ。輝夜から離れたら、お前を殺せってな」 「は……⁉」 「待ってたぜ、お嬢ちゃん。最近お前さんが逃げ出したがってたのは掴んでたからなあ、後はここで待ち伏せするだけよ」  そう何でもないように言って、風早が一歩、近づいてくる。その分後ずさると、背中が岩肌に衝突した。 「な、なんで、俺、何か悪いことしたか?」  慌てて言い募ると、風早は唸った。 「これからするんだよ。村へ下りて、この隠れ里を言いふらして回るかもしれん」  突拍子もない話に、竜巳は慌てて首を横に振った。 「そんな事しない! 俺は、輝夜に会って早く話したいことがあっただけだ」 「どうだか……信用できねえなあ。第一、だったらおとなしく家で待ってりゃいいだろうが。このまま逃げちまうかもしれねえ。後から分かったんじゃ手遅れだからな、その芽ををここで積んでおくのさ。残念だったなあ、輝夜の傍にいりゃあもうちっと生きられたのによ」 「それは、急ぎの用で……お、俺に何かしたら、輝夜が怒るぞ……たぶん」 「だろうなあ、お前さんはあいつのお気に入りだ。俺もあいつにゃあ何の恨みもないが恩も無い。この郷と長には育ててもらった恩がある。逆らうわけにはいかねえ」  竜巳は言葉に詰まった。今の状況では弁明の余地など皆無だ。何せ先ほどまで実際に逃げ延びようとしていたのだから。 だが、ここで死ぬわけにはいかない。真実を突き止めるまで命を落としてなるものか。 「俺は嘘はつかない。本当に輝夜と話がしたかっただけなんだ。でもあんたが言うなら、家に戻る」 「へえ、残念ながら取り繕ったようにしか聞こえねえな。第一、話ってなんだ? 一日も待てないような話だったのか? それこそ、里を出るための相談だったんじゃねえのか」 「ちがっ……!」 反射的に答えて、竜巳の中に一縷(いちる)の迷いが生じた。  輝夜が与一であったなら、何か変わるのだろうか。  永遠にあの家に留まるのだろうか。端から憎い男に復讐するため彼の許へ弟子入りしたのだ、時期が来れば離れる心づもりであった。  では望みが果たされた後ならば死んでも構わないかというと、決してそうではない。  これが終われば次はそれ。人は誠に欲深いと思った。 「で、お嬢ちゃん。輝夜に言伝はあるか」 「!」  懐から小刀を取り出した風早が、緩慢な動作で一歩。二歩と近づいてくる。竜巳は背後を見やりながら、その背を妙な汗が伝うのを感じていた。 「じゃあな、お嬢ちゃん!」  風早が助走をつけて風のように動いた。  竜巳は腹をくくって目を閉じ、その衝撃が来るのを待った。 頭の端で輝夜と出会った晩の事が走馬灯のように思い起こされる。当時は恐怖も無ければ、生に執着することもなかった。むしろ輝夜に、あの美しい鬼に殺されることを望んだ。 今は、まだ、生を望んでいた。 「竜巳!」  そう願った竜巳の鼓膜を、聞きなれた心地よい声と、きん、という甲高い音が震わせた。

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