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第64話
竜巳は部屋を見渡して、ここで過ごした日々を思った。稽古、手習い、炊事――何もかもが懐かしく思える。唯一、己を見守る男が囲炉裏の傍にいないことがひどく悲しかった。
「で、村に着いたあとの行先は決まってるのか?」
「ああ。……祭りに行った、あの城下のどこかにいるはずなんだ」
「へえ、名前は?」
「――佐平」
呟いて、そんなにも強い怒りが湧いてこないことに驚愕する。いつから自分はこうなってしまったのだろう。
いつからあの男の言うように温湯に浸かって、あの男に絆されて、本来の目的を見失ってしまったのだろう。浮かぶのは、不敵に笑う自信に溢れた美しい男の影ばかりだった。これでは甘ったれだと叱られても仕方がないな、と思う。
覚悟を決めなければならない。彼が決別を図ったように、もう彼がおらずとも生きていけるようにならなくてはならない。復讐を果たすことが、輝夜との真の別れを意味することになるだろう。
最後に抱かれた。それだけで未練は無かった。
そんな決意を込めて前を向くと、伊織が無言で細長い包みを差し出してきた。
「これは?」
「……輝夜から、お前に」
困惑して伊織を見る。そっと手を伸ばして受け取ると、伊織は静かに頷いた。両手のひらに乗るそれは外見に反し異様な重量感を持っている。
竜巳ははっと我に返って、慌ただしくその包みを開いた。
布の下から姿を現したのは、輝夜が手にしていたあの小刀だった。
「どうしてこれを……」
「餞別(せんべつ)だとよ。もともとあいつの親父さんから貰い受けたものらしいけど、まあ弟子に譲り渡すってことだろう」
「――……父さんの」
竜巳がぽつりと呟くと、伊織はぎょっと目を剥いた。
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