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つわりと理由
「エド、またつわりなのか?」
「はい……。すみません、せっかく作ってくれたのに全部吐いちゃって」
「いいんだよ。そんなことより、きみがかわいそうだよ。なにも悪いことしてないのにあんなに苦しんで……」
「大丈夫ですよ、シド。それに、それを言うなら赤ちゃんもなにも悪くないし」
「……ぼくは子どものこと、嫌いになってしまいそうだ」
「シドったら」
ウィルクスはくすっと笑った。まだ、吐いたもののせいで口の中が気持ち悪い。何度もうがいしたのに。しかし、沈んだ顔をしていたらシドがますます気にする、と明るい笑顔を意識する。大柄な体で、どこかうなだれている夫の頬を撫でた。ハイドは彼の手首を大きな手で握って、心なしか険しい顔になる。
そう、あまりしんどそうにしないようにしないと。最近、特にシドの甘え方がひどくなってるんだから。
このところ、ハイドはよくウィルクスに甘えてくる。キスの回数が増えたということは特にないが、抱きついたり手を繋いできたり、体を擦りつけてくるといった肉体的な接触は格段に増えた。後ろから抱きついてくることはしょっちゅうだ。ソファに座っているとき、ウィルクスを抱きかかえて膝の上に乗せようとしたり、食事を食べさせたり。彼が家にいるときはしじゅうそばにいて離れない。
ベッドの回数も増えた。もちろん、添い寝だけのときもある。元々、ハイドとウィルクスの寝室は大きなベッドを置けないという理由で別なのだが、ハイドはこのごろは必ずウィルクスのベッドに入ってきた。それだけではない。
「深くしなかったら、いいよね」と言って、ハイドは妊娠したウィルクスに性交渉を求めてくる。ウィルクスも強くは拒めず、腹が大きくなった今もハイドに挿入を許していた。
とはいえ、ハイドも子どもが「近い」のは怖いらしい。いつも最後には怯えたように浅いところにとどまるので、ウィルクスは毎回彼をうながして、「もっと奥に来ても大丈夫ですよ」と誘う。
寂しいんだろうな、とは、ウィルクスもわかっている。赤ちゃん返りではないが、甘えてべたべたひっついてくる夫の姿を見ていると、強くそれを感じる。
おれはあなたのお母さんじゃないですよ、と言おうかと思ったこともあったが、ウィルクスはわかっていた。シドは妻としてのおれを求めている。
生涯の伴侶として、一生を共にする相手として、ウィルクスただ一人を求めているのだ。ハイドは自分に子どもができることが怖い。しかし、ちゃんとした父親になるよう努力すると言った本人の言葉通り、ウィルクスから見ても頑張っていると思う。それでも彼はときどき、夫が子どもを憎んでいるように感じる。「エド一人いればそれでいい」、そう思っているように感じるのだ。
その心は、二人きりだったときには幸せな心だった。しかし、今は二人きりではない。
ハイドは頬を撫でられながら、どこかぼんやりした目でウィルクスを見ていた。ハイドはパートナーを抱き寄せ、彼の腹を撫でながらささやいた。
「もう、食べない?」
「腹は減ってるんです。でも、食べられるかな」
「なになら食べられそう?」
「フルーツかな。グレープフルーツとか」
「よし、たしかまだ冷蔵庫にあったはずだ。切るから、待ってて」
シド、とウィルクスは夫を呼んだ。視線が合うと、ウィルクスはハイドを抱きしめた。腹がつかえるので、ハイドが身を乗りだす。ウィルクスは言った。
「いつか、つわりもおさまりますよ」
「そうだといいけど」
「おさまりますって。たしかに、ずっと気持ち悪いからけっこうつらいけど……」
ハイドはウィルクスの頭に頭を擦りつけて、つぶやいた。
「……なにもしてあげられないの、つらいよ」
そのとき、ウィルクスは思った。この人はたしかに子どもを憎んでいるのかもしれない。しかし、きっとそれ以外の優しい理由だってあるのだと。彼は夫を抱きしめた。
「あなたは、やっぱり優しいんだから」
「どうしたんだ、エド?」ハイドは抱きしめられたままおろおろする。「泣いてるのか?」
「おれ、幸せです。あなたみたいな優しい人と結婚して、子どもも授かって」
ぼくはきみが思うような善人じゃない、とハイドは言った。ウィルクスは首を横に振る。
「善人じゃなくても、優しい人です。おれにはそっちのほうが大事だ」
「……きみは変わった子だ」
「愛してます、シド。いつも、おれだけを見てて」
見てるよ、とハイドは言った。彼はウィルクスを抱きしめた。風呂上がりの、石鹸の匂いがした。
膨らんだ腹に視線を向けて、ハイドは恐怖に打ち克とうとした。自分を変えようと努力した。そうやって努力するたび、彼はウィルクスに甘える。生きる空虚を薬で紛らわせる重度のジャンキーのように。それを優しい人だと言うウィルクスが、ハイドには今でも不思議で愛しかった。
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