4 / 12

お買い物デート

 リージェント・ストリートにあるベビー・アンド・マタニティ用品を売るショップで、ウィルクスは真剣に生まれてくる子どもの服を選んでいた。  『マーマレード・マフィン』という名のこのショップは、名前の通り可愛くてポップな商品がそろう、妊婦アンド妊夫憧れの店なのだ。ウィルクスも妊娠初期、産科に置いてあった雑誌の特集を読んで名前だけは知っていた。  彼はファッションや雑貨には興味がない。娘の服も、吐いたり汚したりしてもいい着脱しやすい服で、丸ごと洗える安いやつでいいや、と思っていた。そんなウィルクスが夫と共に、この洒落ていて可愛くて少し高級な店に来たのは、同僚の推薦のせいだった。女性刑事で男女の双子がいるキャシー・シュルツが、『マーマレード・マフィン』の服は可愛いし、丸洗いもできていいわよ、と言ったのだ。 「それに、育児中って思うようにいかなくてイライラするんだけど、子どもが着てる可愛い服を見たらちょっと気分上がったわ」  おしゃれなシュルツらしい、とウィルクスはそのとき思ったが、パートナーであるシドニー・C・ハイドにその話をしてみると、彼は「いいんじゃないか」と意外にも乗り気になった。 「赤ちゃんだから自分の着ている服がどんなものかは自分ではわからないけど、女の子に可愛い服を着せるの、いいね」  ウィルクスは意外に思い、かつうれしかった。  ――おれの腹が大きくなるにつれて、シドは塞ぎがちだった。なにかを考えこんでいることも増えたけど、そうやって子どもに着せる服のことをきっかけに、自分の娘に興味を持ってくれるなんて。  ウィルクスは涙が出るほどうれしかった。だから激務の合間をぬって休みをとった月曜日、うきうきしてハイドをショッピングに誘ったのだ。『マーマレード・マフィン』はおしゃれなママが自分のセンスを注ぎこんでコーディネイトしたみたいな洗練された店で、ウィルクスは若干気圧された。それでも、赤いドットがちりばめられた店内をまわり、ベビー用品を見ていると楽しくなってくる。もう少ししたら娘が生まれてくるんだなと実感した。  クマの顔になっているガラガラを買い物かごに入れ、ベビー用の服を真剣に選ぶ。キャシー・シュルツおすすめの、オリジナル・ブランドの服が着脱させやすくてカラフルで可愛いらしい。ウィルクスはかごを床に置き、大きなお腹の前で服を広げて、悩んでいた。夫の意見を聞こうとあたりを見回す。すると、大柄なハイドの頭が見えた。 「シド、服、どれがいいと思い……」  そう呼びかけたとき、ウィルクスははっとした。ハイドが見ているもの。それは胴の部分が透けた素材になっている、淡いブルーのベビードール。マネキンが着ているそれは、レースを贅沢にあしらったカップと花がついたリボンが可憐な、Aラインの裾がふんわり広がって腰を覆うタイプのものだ。セクシーなそれをじっと見ている夫に、ウィルクスは思わず顔が赤くなる。 「シド、なにしてるんですか……」  小声でささやくと、ハイドはくるりと振り向き、いつものおおらかな笑顔で悪びれずに言った。 「いや、セクシーでいいなと思って。着てほしい」 「そんな女性がいるんですか?」  冷たい目で言ったウィルクスに、ハイドは慌ててベビードールの裾から手を離す。 「違うよ。きみに着てほしいんだ」 「は?」ウィルクスは目を丸くしてさらに赤くなった。 「また、変なこと考えて。それにいまおれ、腹でかいですよ」 「知ってるよ。このベビードール、妊婦さんが着る下着なんだって。ウエストがゆったりしてるんだ。こんなの着た奥さんを見たら、久しぶりの夜も燃えるよね」 「助平なんですから」  ウィルクスは呆れた顔でそう言って、夫を手招きした。 「服、選んでるんです。どれがいいと思います?」 「んー」ハイドは近寄ってきた。ウィルクスのそばにすり寄り、彼の手元を覗きこむ。そのとき夫の匂いが漂って、ウィルクスは一瞬うっとりした。 「これ、可愛い」ハイドも真剣な顔になり、服をためつすがめつする。「着せやすそう」 「あ、そうなんですよ。しかも洗濯機で洗えるんです」 「淡いパープルで、女の子が好きそう。この花の飾りも邪魔にならなさそうだけど可愛い」 「あなたはおしゃれだから、選んでください。おれにはわからなくて」 「ぼくも女性にあげるものはわからないよ」  一人前のレディに贈るプレゼントを選んでいるようなハイドの言い方に、ウィルクスは思わず微笑む。手にしたものを触ってうなずき、ハイドは言った。 「これにする? オーガニックコットンで肌触りもいいし」 「そうですね。じゃあ」ウィルクスは服をかごに入れて、ほっとした顔になった。 「このあと、ハムレイズに行きませんか? ここから近いし」  ハムレイズはこの店の近所にある、イギリス最大のおもちゃ屋だ。世界最古のおもちゃ屋といわれ、地下一階から五階までおもちゃがぎっしり詰めこまれている、子どもの憧れの場所。レゴでつくられた大きなエリザベス女王とコーギーも合わせて観光名所になっていたりする。そこで、ちょっと早いけど娘にあげられるぬいぐるみがないかな、とウィルクスは思っていた。  それから、ハムレイズは彼の思い出の場所でもある。まだ七つだったころ、両親に連れられてロンドンに遊びに来たとき、連れていってもらったことがあった。あのときの感動と興奮は、今でもいい思い出だ。あまりに厳しい父親と影の薄い母親、閉塞的な家が嫌でたまらなかったからこそ、そう思う。  ハイドはウィルクスの手からかごをとりあげて、うなずいた。 「いいね。だが、少し休憩しないか? きみも疲れただろう」  ウィルクスはほっと息をもらしてうなずいた。実は疲れていたのだ。腹が重くなってから、立ちっぱなしは疲れる。現役の刑事で体力にも自信があるウィルクスだったが、このごろは貧血気味なのもあって、疲れやすい。 「地下にカフェがあるって」レジに向かいながらハイドが言う。「お茶しよう」  ウィルクスが服とスタイと靴下、それにガラガラを入れてもらった袋を受けとろうとすると、ハイドがすかさず手を差し伸べて代わりに持つ。 「重くないから大丈夫ですよ」とウィルクスは言うのだが、ハイドは頑としてゆずらない。ウィルクスは胸の中でため息をつく。妊娠がわかってからずっとこうなのだ。  二人はいっしょにエスカレーターを降り、カフェに向かった。大きな暖炉があり、店内には樹があちこちに植わっている山小屋ふうのカフェで、ゆったりしたソファが壁際に配置されていた。二人は隣りあって腰を下ろし、そのふかふかの座り心地に思わずほっと息をもらした。  ハイドは蜂蜜入りのカフェオレ、ウィルクスはルイボスティーを頼む。飲み物を待つあいだ、二人は頭を寄せ合ってハイドのスマートフォンを覗きこみ、彼の異母兄、ハイド家の次男フレデリックが送ってくれた写真を見た。ソファに置かれた、毛足が長めの巨大なテディ・ベア。ハイドが言う。 「これ、フレッドが姪っ子にって、買ってくれたんだ。彼はオックスフォードで教授をしてるだろう? 教え子のおばあさんが英国テディ・ベアなんとかかんとか協会の理事長で、そのツテで入手したんだって」 「立派ですね。ていうか、これ倒れてきたら娘潰れませんか?」 「ちょっと危険ではあるかもね」 「でも、かわいい。すごく愛嬌のある顔だ。お兄さんにお礼しなくちゃ」 「フレッドは姪っ子ができるの、すごく楽しみにしてるみたいなんだ。うち、兄弟三人とも男でね。アイザック(長兄)の子どもも男兄弟だし。『女の子の扱い方はわからないよ』って言ってたけど、フレッドは意外に子ども好きだからね。アイザックのところの子どもたちはもう成人してるし。だから、心待ちにしてるらしい」  そこで飲み物がきた。二人はマグカップに口をつけた。ウィルクスは疲労が緩むのを感じる。ハイドもほっとした顔をしていた。 「煙草は、もう完全にやめられた?」と尋ねる。ウィルクスはルイボスティーを飲みながらうなずいた。 「ヘビースモーカー手前でしたからね。最初はかなりきつかったけど、なんとかやめられました。あなたも、つきあって禁煙してくれてありがとう」 「ぼくはもともと、そんなに吸わないから」 「おれ、このぶんだと、出産後も禁煙続けられるかも。でも、太っちゃって」 「え、そうか?」 「妊娠してるからわかりにくいけど、確実に肉がついたんですよね……」 「どれどれ」  ハイドは右隣りにいるウィルクスの脇腹をパーカー越しにつまんだ。つままれたほうはぴくっと跳ねて夫を睨む。 「くすぐったいですよ」 「んー、全然、ついてないけど」  むにむにとつまんでくるハイドの手の甲をつねりつつ、ウィルクスは怒った顔になる。それが感じているからだと、ハイドは知っていた。妻の体に腕をまわし、耳元にそっとささやく。 「今夜、いいか?」  ウィルクスは目を泳がせ、ぷるっと震えた。ハイドに抱かれるような格好のまま、うっすらと赤くなる。 「で、でも……赤ちゃん、もうおっきいし……」 「深くしないから」 「ん……。……軽くですよ……」  うん、と微笑むハイドに、おれも甘いなとウィルクスは思う。それでも広いカフェの隅で夫と抱きあうように睦みあっていると、彼の目に世界はバラ色だった。生まれてくる子どもの生きる場所がここなら大丈夫だ。ウィルクスはそう思った。  甘い空気に浸る二人だったが、そばを通りかかった店員が持っていたホットミルクを彼らのテーブルにぶちまけて、その場は騒然となった。軽く「ソーリー」と言って手早くミルクを片付けて去った店員にほっとしたあと、ハイドが尋ねる。 「産休はまだだっけ」 「ええ、もうちょっと先にしようかと」 「まだ仕事できるのか?」  ウィルクスは凛々しい眉を吊り上げた。 「できますよ。今も殺人犯の取り調べしてますもん」 「そうか……。働くきみはかっこいいよ。でも胎教としてはどうだろうと思わなくもない……」 「人手が圧倒的に足りないんですよ。それを言うならあなただって、殺人犯の告白とか未解決猟奇殺人のドキュメンタリーばかり観て……」  二人はそんなことを言い合いながら、飲み物を飲む。  三人のこの日もまた暮れそうである。

ともだちにシェアしよう!