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兄が様子を見にくる
ハイドは窓際のソファに腰を下ろし、隣に座る巨大なテディ・ベアの頭をぽんぽんと叩いた。ぬいぐるみはこくんとうなずくように頭を揺らす。ハイドはミルクティーをすする兄に向き直った。
「ぬいぐるみ、ありがとうございます、兄さん」
フレデリック・N・ハイドはうなずく。シドニーの六つ上で、ハイド家の次男。母親が違う兄の彼は、現在オックスフォードで哲学科の教授をしている。背が高く骸骨のように痩せた鋭い顔の持ち主で、色の褪せた金髪を撫でつけ、ヘーゼルナッツ色の目を静かに光らせていた。
この日は休暇をとり、フレデリックはわざわざ昼からテディ・ベアを腕に抱えて(しかも雨が降り出しそうだったため、透明なビニール袋で厳重に包んできた)、列車に乗り、弟夫妻の家を訪れたのだった。
「気に入ってもらえてよかったよ、シド」
兄は満足そうにうなずく。
「姪っ子の遊び相手にぴったりだと思ってね」
「きっと見守り役になってくれますよ」
シドニーはそう言って笑顔を見せる。ただ、胸中密かに「大きすぎて怯えるかも」と思っていたのだが、言わなかった。
弟が完璧な手順で淹れてくれたミルクティーを飲みながら、フレデリックは尋ねた。
「ウィルクスさんの体調はどうだ? まだ仕事には出ているそうだが」
「元気だとは思いますよ。風邪も引いてないし。ただ、貧血気味だそうです」
「何か月だね?」
「六か月? 七か月だったかな?」
「知らないのか?」
呆れたように言ったフレデリックに、ハイドは冷や汗を浮かべた笑顔を向けた。急いで話題を変える。
「ところで、兄さん。あなたに娘の名付け親になってもらいたいと思っているんですが」
フレデリックは驚いた顔をして、口元に運びかけたカップを空中で止めた。それから無表情で言う。
「うちのしきたりでは、名付け親は父親がすることになっている。しかし父は亡くなっているな。だから、本来なら長男のアイザックがすることになるはずだよ」
「わかっています」
シドニーはうなずくが、この場にいないもう一人の兄のことを考えてすでに具合が悪くなってきた。絶世の美男だった父親の美貌を唯一受け継いだ、シドニーの七つ上の異母兄アイザック。彼はシドニーが産まれたときからこの末弟に冷たかった。それはむしろ家族の中では多数派で、女遊びの延長で産まれたシドニーに、父も、彼に心酔していた実母も、アイザックもフレデリックも使用人たちもたいした興味を持っていなかった。
それでもフレデリックは弟のことを密かに気にかけていたが、アイザックは違う。責任感が強いからか、性的にだらしなく責任感に欠けるように見えるシドニーのことを、少年期から今まで蔑んでいるのだ。かといって憎むほどの興味は持ち合わせていない。
……おれはアイザックの結婚式にも呼ばれなかったしな、とシドニーは思う。沈んだ顔になる弟に、フレデリックは眉間の皺を緩めた。
「……まあ、おまえの事情もわかるよ。だが、ザックはあれで律儀な男だ。頼めばつけてくれると思うが」
「義務感ででしょう? 娘の顔を見るたび、彼の愛想のいい、上っ面だけの笑顔を思い出すのは、きついですよ」
正直に言った弟に、フレデリックは困った顔になった。正直、どうして弟がこんなにアイザックに怯えるのかわからない。フレデリックとアイザックはとりたてて仲がいいわけではないが、かといって悪くもない。誕生日には手紙とプレゼントの交換をするし、会えばお互い敬意を持って接する。成熟した大人の関係を築いているので、フレデリックには兄と弟の確執が不思議だった。
それでも、彼は励ますようにシドニーに笑いかけた。
「よし、わたしが名付け親になろう。ザックも文句を言ったりしないよ」
シドニーはほっとした顔になった。「ありがとうございます、兄さん」と満面の笑みになる。やれやれと思い、フレデリックはミルクティーを飲んだ。
「おまえがそんなかんじだと、ウィルクスさんになにかと心配とか苦労をかけているんじゃないか?」
「たしかに、ぼくら兄弟のいざこざに巻きこまないようにしないと、と思います」
表情を引き締めて言った弟に、フレデリックは「それもそうだが、わたしが言いたいのは」と内心思う。「おまえが、自分に子どもができることをそんなにも恐れている点だよ」。
シドニーがウィルクスと結婚して二か月ほど経ったころ、夜中に突然、弟から「もし子どもができたら、ぼくはどうしたらいいんでしょう」という電話がかかってきたときは、フレデリックは心底驚いた。
だが、今はもう父親なんだよと兄は思う。子どもがこの世界に産まれてくる前から、おまえはもう父親なんだ。
そして、弟は戸惑いながらもその役割を果たそうとしているように、この日の兄は思った。
「わたしは独身だし子どももいない。だが、できることがあればなんでも言ってくれ。話を聞くことはできるから。わたしは、子どもはコミュニティが育てるものだと思っている。『わたしもきみも善く生きるために』と、片っ端から道行く者をつかまえて、哲学談義をしていたソクラテスと古代ギリシャのように。おせっかいなことだがね。だが、困ったときには言ってほしい。おまえたちの力になりたいと思ってるんだ」
シドニーは目を細めた。
「ありがとう、フレッド」
その優しい表情を見ていると、弟は子どものころから変わっていないなと兄は思う。
「ところで」とお茶を飲みながらフレデリックが言った。
「なにかほかに欲しいものはあるかね? 出産祝いにプレゼントするよ」
「じゃあ……搾乳器とか」
「は?」
とんでもない顔になるフレデリックに、シドニーは慌てて言った。
「いや、エド、妊娠してからおっぱいが張ってて。女性ホルモンの影響で、子どもを産んだら母乳が出るタイプだろうってドクターが言うんです。そんなに珍しくないそうですよ。それで、搾乳器があればいいなって……」
「子どものいないわたしに搾乳器は買えないよ、シド」
「ですよね。自分たちで買います」
ははは、と笑うシドニーに、兄はため息をついた。
玄関のドアが開く音がした。続いて階段をのぼってくる音。仕事帰りのウィルクスがスーツ姿で顔を覗かせた。夫とその兄の顔を見て、明るい笑顔になる。
「ただいま、シド。お久しぶりです、フレッドさん。わざわざ来てくださりありがとうございます。あ、ぬいぐるみ、あれですね。でかいし可愛い」
「お疲れ様、ウィルクスさん。お腹、大きくなったね。無理しないように気をつけるんだよ」
「おかえり、エド」ハイドもソファから腰を上げ、穏やかな笑みを浮かべる。
「今夜はステーキにしたんだ。妊夫さんのきみも食べられるように、しっかりウェルダンにするからね。着替えて、フレッドとゆっくりしてて」
はい、とウィルクスは笑う。
幸せそうじゃないか。その光景を見て、兄は満足げに思った。
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