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ウィルクス君、産休をとる

 仕事で遅くなった。午後九時を回って、急いで職場のロンドン警視庁から帰ってきたエドワード・ウィルクスは、自宅の玄関扉を開けた。まっすぐ居間兼事務所に向かう。  階段を多少ばたばたしながらのぼり、居間の扉を開けた。真っ暗なテレビの前に座って、夫のシドニー・C・ハイドが待っていたが、ウィルクスは動揺してしまった。  ハイドはいつもの包容力抜群の笑顔で出迎えてはくれなかった。その彫りの深い顔は険しく引き締まり、獲物に向かって牙を剥き出しにする狼そっくりだった。  ウィルクスは思わず怯えて後ずさる。  ハイドはソファから立ち上がるとパートナーの前までずんずん歩いていって、有無を言わさずその身重の体を抱きしめた。  ウィルクスはどうしていいかわからなくて、抱きしめられたままハイドの腕の中で小さくなっている。それでも、あまりに腕の力が強いので、彼は思わず言った。 「シド……赤ちゃん潰れちゃいますよ」  ハイドは黙ったままウィルクスの首筋に顔を埋めていたが、体を離すと彼の肩を両手でぎゅっとつかんだ。顔を覗きこむ。その真剣な表情に、ウィルクスは不安になった。 「エド」ハイドは肩をつかんだまま重々しく言った。 「今日の夕方、酔っ払いのけんかを止めようとして、蹴られて転んだそうだね」  ウィルクスの表情が青くなる。反射的に、「誰が言ったんですか?」と尋ねてしまった。ハイドはその発言を無視した。  今や、彼はウィルクスの目に、「不安」を通り越して怖く見えた。怒っているんだと思った。  しかし、ハイドはどちらかというと単にとてもショックを受けていただけなのだ。  ウィルクスの体をぎゅっと抱き締めて、「額の傷と頬骨の傷、あとスーツの膝が破れかけてる」と言った。  ウィルクスは額の傷を手の甲でごしごし擦る。小さい傷だからわからないと思っていたのに、さすが私立探偵。 「……言わないでくれって頼んだのに」  つぶやくウィルクスに、ハイドは両腕に力をこめた。 「教えてくれたきみの同僚は、きみのことが心配だったんだよ」 「あの場にいっしょにいたのはストライカーだった。彼は筋骨逞しいってタイプじゃ全然ない。おれを助けるのが遅れたって自分を責めてましたけど、別にたいしてけがもしてないし……」 「産休、とろう」  抱きしめたまま、ハイドがきっぱり言った。ウィルクスはのけ反るような格好で「う」とうめく。強く抱きしめられているせいで、お腹が苦しい。ハイドの胸に手のひらを押しこみ、胸をぐいと押すと、夫は悲しそうな顔をした。 「産休、とろうよ……」  泣きそうな目で言ってくるので、ウィルクスも思わず動揺する。それでも腹をさすりながら、「でも」と言う。 「まだ八か月ですよ。もうちょっと働けます。書類作ったり、取り調べしたりするのは、座っててもできる。みんな仕事を抱えて忙しいんです。だからそれくらいなら……」 「きみは責任感が強い。それに、骨の髄までお巡りさんなんだから」  ハイドはパートナーのけがをしていないほうの頬骨を撫でているが、その目は暗く沈んでいた。 「けんかを止めないとと思ったとしても、きみのお腹には赤ちゃんがいるんだ。大変なことにならないか心配だよ。それに相手は頭に血が上ったやつらなんだ。お腹を蹴られたらどうするんだ?」  ハイドの心配は当然のものであるだけに、ウィルクスは返す言葉が見つからない。しばらくうつむいて黙ったあと、「わかりました」と言った。 「おれ、来週から産休とります。家にいますよ。それで、安心してくれますか?」  ハイドはパートナーを抱きしめて、「うん」と言った。声が震えている。ウィルクスはほっと息を吐いて、夫の半ば白髪になった頭を抱きしめた。心配しすぎじゃないかな、と思う。  ウィルクスだって、そうしょっちゅうけんかを止めているわけではない。今回は、本当にたまたまだった。用事で外に出たときにたまたま……。ふだんは巡査といった制服警官たちが素早くやってきて、してくれることだ。今回はストライカーがいてくれて運がよかった。  しかし、ウィルクスはハイドに言い返したり抵抗するのをやめた。「きみになにかあったら……」と夫は震える声で言う。 「おれと、赤ちゃんにでしょ」  ウィルクスが言うと、ハイドはこう答えた。 「子どもはまたつくれる。でもきみは、かけがえがないんだ」  ウィルクスの表情が変わったのに気がついて、ハイドはばつの悪そうな顔になり、慌てて言った。 「さあ、着替えてきて。ごはんにしようね」  自室に続く階段をのぼり、ウィルクスは腹をさすりながら思う。  シドは娘のこと、そんなふうに考えているんだな……。  自分に向けられる愛情が不満だなんて言うつもりはない。でも……。ウィルクスは自分の部屋に戻りながら涙を流した。  そしてウィルクスは産休をとった。春に向かいかけたころだった。  毎日家にいるようになった彼のことを、ハイドは日々変わらず甘やかす。そしてべったりと甘えてくる夫を見ていると、今の状態をいちばん望んでいたのはシドなんだなと、ウィルクスは皮肉が混じる気分で思う。  それでも毎日、朝起きてから眠るまで夫のそばにいられることは幸せだった。それだけは偽れないと、ソファの中でハイドと手を繋ぎあい、瞳の中を覗きこまれてウィルクスは思った。

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