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誕生日

 五月も半ばを過ぎたころ、ハイドは仕事で難しいケースを担当していた。彼の職業は私立探偵。階級を問わず、またイギリスに留まらず、さまざまな依頼人たちがハイドを頼ってくる。  ときに警察に協力を求められることもあり、凶悪な殺人事件や盗難事件と関わることもある。しかし、大多数の依頼人は胸に抱えた誰にも言えない秘密や醜聞や、いざこざをなんとかしてもらおうと彼を頼ってくるのだ。  ものごとをそつなくこなして如才なく、器用で世慣れているハイドはなにかと頼られる。ときには探偵というよりも、その仕事はカウンセラーに近い。今回、彼はあるイギリスの老貴婦人から遺産を巡るいざこざで相談を受けていた。この女性がまた気難しく、居丈高で、容赦というものがない。ハイドを含め、周囲の人間を振り回し、イライラさせる。  しかし、ハイドはけっこう楽しくこの貴婦人と付き合っていた。相手のことを観察し、根はいい人だとわかる。人を信用しない彼女も、ハイドの言うことは素直に聞くようになってきている。そんなときにもちあがった家庭内の醜聞騒ぎ。ハイドは鎮火に駆けずり回っていた。  しかしそんなときも、彼は「妻」に深刻な顔を見せてはいけないと思う。パートナーのウィルクスは産休をとっているのだ。今もまた、ハイドは笑顔を意識して居間に続く階段をのぼっていた。いや、意識せずともウィルクスのことを思い浮かべると笑顔が浮かぶ。  ハイドはただいま、と言って扉を開けた。  しかし、ウィルクスはソファのそばの床に這いつくばっていた。ハイドを見上げる。その顔は真っ青で、泣きだしそうだ。 「シド……お、お腹、痛い……」  ハイドは我にかえった。陣痛だ。そう思った。ウィルクスの元に駆け寄り、そっと体に腕を回す。 「歩けそうか? 車を出すから、待ってて」  ウィルクスはこくりとうなずいた。ハイドは彼を抱え起こす。腕にお腹の子どもと、二人分の体重を感じる。  仕事で第一発見者になることもある彼の動作は、このときも落ち着いていた。しかし、顔はこわばっている。 「大丈夫か、エド。歩ける?」  かすれた声で話しかけ、抱きかかえるようにウィルクスを支える。ウィルクスがうつむいて腹を抱え、ふらふらした足取りのまま「痛い……」とうめき、ハイドは彼のそばでどうしていいかわからなかった。  しかし二人がかかりつけの産科に辿りついたときには、ウィルクスの痛みはおさまっていた。 「前駆陣痛でしょう」と医者は言った。  ウィルクスは「あー」という顔になるが、ハイドの顔はまだこわばったままだ。 「赤ちゃんが産まれるという合図の陣痛が始まる前に起こる陣痛です。『もうそろそろですよ、準備しててくださいね』、って合図なんですよ。だから心配いりません」  けろりとした顔で言う医者に、ハイドはよくわからない怒りを覚えたが、それは「これより長くて痛いことがまだこの先も起こるのか」という怒りと恐怖からだった。ウィルクスは納得した顔をして、「じゃあ産まれるのはもうちょっと先ですね」と医者に言う。その落ち着き方に、ハイドは思わずパートナーの手をぎゅっと握った。  結局、ウィルクスはそのまま帰宅した。帰りの車の中で、ハイドは執拗に「本当に大丈夫なのか、入院しなくていいのか」と尋ねた。ウィルクスは笑って、「大丈夫ですよ、痛みも引いたし、緊急でもないから」と答える。  ハイドはその日ずっとウィルクスのそばを離れなかった。  結局はそれがよかった。ハイドは翌日仕事で出かけるとき、ウィルクスに「なにかあったらすぐに電話して」と言い聞かせた。ウィルクスも「はいはい」と笑い、笑顔で彼を送り出す。ハイドはその日、件の貴婦人と面談の予定だった。サセックスの屋敷で話しあいましょうと貴婦人から言われていたのだが、ハイドはパートナーのことが心配になり、結局リージェント・ストリートのホテルでの会談となった。  それが幸いした。会談の最中にウィルクスからスマートフォンに電話がかかってきたのだ。 「破水しました、救急車を呼んだけど、産まれそう……」  苦しそうな息遣いと切迫した声を聞いて、ハイドは椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。どこに行くの、と叫ぶ貴婦人に、「それどころじゃないんです!」ときっぱり言い放つ。タクシーの中ではいてもたってもいられなかった。その上、道路工事のせいでちょっとした渋滞に巻き込まれて、いっそ自分で走ったほうが早いんじゃないかと焦る頭で思った。  それでも帰宅すると救急車が来たあとで、ハイドは先に車内に運びこまれたウィルクスを追って中に入った。彼はシートの上で横になり、体をくの字に折り曲げて、目を閉じ浅い息を漏らしていた。 「旦那さんですか?」  救急隊員が引き攣った顔のハイドの肩を叩き、呼びかける。 「奥さんの身元の証明書をお願いします。出産ですね? かかりつけの病院は?」  ハイドは質問に答えながら、こういう場合はぼくが車を運転していくべきなんだろうかと考えていた。しかし、救急隊員はてきぱきと同僚に指示を出し、救急車を発進させていた。ぐったりとシートに横たわるウィルクスに、勇気づけるように話しかける。 「オーケー、ミスター・ウィルクス。怖がらないで大丈夫ですよ。車は走りだしました。病院に向かっています。体を楽にして。旦那さんもそばにいますよ」  ハイドははっと我に返った。ウィルクスの汗ばんだ冷たい手をぎゅっと握り、「エド」と呼びかける。すがるように彼の顔を覗きこみ、ささやく。 「そばにいるからね。怖くないからね」  ウィルクスは真っ青な顔でうなずいて、膨らんだ腹を覆うパーカーの裾をぎゅっと握った。  しかし、救急車はまた渋滞にさしかかった。ウィルクスは汗ばんだ顔を伏せ、苦しげな息を漏らしている。「まずいな」と救急隊員がつぶやいて、ハイドはウィルクスの手をぎゅっと握りしめた。最悪の想像が頭をよぎる。 「よし、いったん折り返して別の道から行こう」  救急隊員の声が響いた。  十五分後には病院に着き、ウィルクスはそのまま分娩室に運ばれた。ハイドはその外の廊下でうろうろする。 「お父さんも中に入れますよ」と看護士からは言われたのだが、産まれてくるところを見る勇気はハイドにはなかった。今でさえ、「エドのお腹に別の人間がいるなんて、エイリアンが巣食ってるみたいだ」と思うのだ。  廊下は静かだった。ハイドはうろうろしながらスマートフォンを握る。兄のフレデリックに電話をかけた。  大学教授の彼はちょうど授業中だったのだが、十五分後に電話がかかってきた。 「シドか? フレデリックだが。どうした?」 「子どもが産まれそうなんです」  ハイドの声は震えていた。なんだって、とフレデリックの声が大きくなる。 「ウィルクスさんは? 分娩室か?」 「はい。――あっ、ちょっと待っててください!」  ハイドは通話を切ると、分娩室から出てきた助産師に飛びかかるようにして尋ねた。 「あの、中にいるぼくの妻ですが。大丈夫ですか? 産まれそうですか?」 「まだかかりますよ」と男性妊娠専門の助産師。「あなたのパートナーはよく頑張っていらっしゃいます。ただ、男性は女性よりも痛みに弱いので……」  ハイドの顔が真っ青になる。助産師の腕を掴み、「帝王切開はできないんですか?」と尋ねた。助産師は首を振る。 「あれはあれで、術後に強い痛みがありますから。お母さんは自然分娩を選んで、頑張ってらっしゃいます。気を落ち着けて、お待ちください」  助産師が行ってしまうと、ハイドはふらふらと廊下に置かれたソファに腰を下ろした。自分の手の甲を力一杯つねってみる。エドは、この千倍は痛いんだろうか。それとも一万倍? 怖くて不安になる。  やっぱりエドのところに行ったほうがいいのか? きっと、まともな父親ならそうする。  しかし、ハイドにはできなかった。彼はうなだれてソファに腰を下ろし、何度も何度も閉ざされた扉を見た。  それから五時間後、無事に子どもが産まれた。 「ほら、お父さん! 腰が引けてますよ! しっかり見て!」  産科医に言われ、ハイドはびくびくしながらベッドに横たわるウィルクスと子どものそばに歩み寄った。汗が滲んだ顔と、潤んだ目を細めて、ウィルクスはハイドを見上げる。  きれいだとハイドは思った。ウィルクスは子どもを抱いていた。黒髪で、目のぱっちりした女の子。ハイドの体からなにかが溢れて流れ出す。 「……美人だ」  つぶやいたハイドに、ウィルクスは笑いかけた。娘はきらきら輝く目で、不思議そうに父親のことを見ている。 「お父さん、抱いてみますか?」  産科医に言われて、ハイドはこわごわ我が子を腕に抱いた。首がすわっていなくて、もし自分の手が外れたらと思うと、腕が震えてくる。  軽い、ちっちゃい、とハイドは言った。娘は泣かずに父親の顔をじっと見ている。ハイドは子どもを抱いたまま、ベッドに横たわるウィルクスを見た。 「エド、子ども、子ども、う、産まれ……」  そこで言葉が続かなくなる。娘を抱いたまま、ハイドの頬を涙が伝った。  エド、おれ、ほんとは生きていくのがしんどくて、死のうかと思うこともあるんだ。五十三になってもこうなら、きみには言ってないけど、死ぬつもりなんだ。死ぬつもりなんだよ。  ハイドは娘を抱いたまま泣いた。死ぬのが怖かった。死にたくないと思った。子どもを抱いたまま棒立ちになって泣く夫の服の裾を、ウィルクスはベッドの中から握った。 「シド、そばにいますからね」  そう言ったウィルクスにハイドはがくがく首を振ってうなずき、頑張ったね、頑張ったね、と繰り返した。  医者たちはいつのまにかいなくなっていた。  翌日、知らせを受けたフレデリックが病院に到着。  件の貴婦人はハイドから娘誕生の報告を受けると、すぐに行動を起こした。ウィルクスの病室に飾れるように、ピンクのバラのブーケを贈ったということである。

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