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写真

 妻が授乳をしている。  ハイドはソファの前の椅子に腰を下ろし、その光景を見ていた。  妻と言っても、彼の結婚相手は男。二週間ほど前に出産した。妊娠と女性ホルモンの影響で胸が張り、そんなにたくさんではないが母乳も出る。  娘には、基本的には人工栄養であるミルクを与えているが、医師からの指導で、免疫力を高めるために母乳も与えているのだ。  今はそんな「ごはんタイム」。ウィルクスは胸元までボタンになっているカットソーの前を開け、娘に母乳を与えていた。乳首に吸いつき、こくこくと飲む我が子。ハイドはまじまじとその様子を見ている。ウィルクスが視線に気がついて顔をあげた。 「なんですか、シド」 「もう片方の乳首も見せて」 「変態ですか。夜に見てるでしょう?」  あっさり言って、ウィルクスはふたたび視線を腕に抱いた娘に戻す。その慈愛に満ちた眼差しに、ハイドはそっと目を逸らした。 「おいしかったか、ハンナ? じゃあ次は、ミルク飲もうね」  そう言ってごそごそと哺乳瓶をとりだすウィルクス。ハイドはまたちらりと娘のほうを見る。「うー」と言って、ウィルクスの胸元にしっかり抱きついていた。  娘の名前はハンナに決まった。ハイドの兄である哲学科の教授、フレデリックが、「聡明な女性に育ってほしい」という思いをこめ、女哲学者ハンナ・アーレントの名前をとって名づけたのだ。さらに、ハンナ(Hanna)には「アン(ann)」という名前も入っている。シドニーを育てた乳母の名前だ。  これは偶然ではないとシドニー・ハイドは思っている。家族からはたいして興味を持たれずに誕生したシドニーを、唯一受け入れ大きな心で愛したアン。彼女はシドニーが大学生のときに列車事故で他界した。  今、アニーが生きていたら。ハイドはパートナーに抱きつく我が子を見ながら思う。どうやって娘とつきあえばいいか、教えてもらえるのに。  それでも、ハイドは娘に「ミカエラ」というミドルネームをつけた。自身がクリスチャンではないから悩んだが、自分にできることはこれだけだと、警察官の守護聖人である大天使ミカエルの名をつけたのだ。  ハンナはミルクを飲み終えたらしい。ウィルクスは娘を抱えて立ち上がり、夫の腕に彼女をそっとあずけた。ハイドはどぎまぎする。 「ほら、シド、げっぷさせてあげてください」  ハイドは動揺してうなずく。ひとまず、教えられた通り背中をとんとんたたいてげっぷをうながす。ハンナはうまくげっぷしてくれた。ハイドはほっと息をつく。娘と目があった。「なにこの生き物」という目で見てくる娘に、一応「パパだよ」と言っておく。  ウィルクスは満足したらしい。にこにこしている。ハイドはその笑顔を見て、ほっとした気分になった。  玄関のチャイムが鳴った。「はーい」と言ってウィルクスが居間から出ていく。ハイドはぼんやりとその背中を見送った。  しかし、突然夕立のように娘がぐずりだした。ハンナは「うー、うー」とうなり、大泣きしはじめる。ハイドはおろおろし、椅子から立ち上がった。  ハイドのことを知っている者がこんなふうに狼狽しておろおろしている彼を見たとしたら、意外に思い笑ったかもしれない。うぶな女子大生に泣きわめかれても、ギャングに拳銃を突きつけられても動じない男が、赤子一人になにを動じているのかと。しかし、「それとこれとはまったく別物だ」とハイドは思っていた。  娘を抱いて体を左右に揺らし、なんとか泣きやませようとする。「よしよし」と訴えるようにささやいた。 「エドは、すぐに帰ってくるからね。泣かないで、ハンナ。いい子だから」  ハンナは泣きじゃくっているが、ハイドが体を揺らしているとやがてそれもぴたりとおさまった。涙がたまった大きい目で父親を見上げる。ハイドの胸が切なく疼いた。パートナーと同じ、焦げ茶色の瞳。彼と同じで、きっとひたむきに大きくなるだろうと思わせる。それに、美人だ。とてもきれいな子だ。  娘を見ていると、ハイドの目に涙が浮かぶ。なぜなのか、自分でも理由はわからない。娘が産まれてからずっとこうなのだ。おれも歳をとったのか、とハイドは思った。涙をぬぐいたいが、娘を抱いているためそれができない。  階段をのぼる足音がして、ウィルクスが戻ってきた。手に段ボールの薄い箱を持っている。 「買い物した荷物が届きました」  機嫌よくそう言って、ハイドと娘を見た。 「シド? あやしてくれてたんですか?」  うれしそうなウィルクスに、ハイドは顔を背けたまま「うん」と答える。 「なあ、エド……ハンナはとても美人だね」 「ええ」ウィルクスはどこか胸を張った。 「あなたに似て、彫りの深いちょっとエキゾチックな顔立ちですよね。将来は美人ですよ」 「男どもにまとわりつかれてきっと苦労するんだよ……。幸せな性生活を送ってほしい……」 「早いですよ、シド。まだ二週間です」  困ったように言うウィルクスを見て、ハイドは笑った。涙は流れ落ちてもうわからなかった。ウィルクスはテーブルに段ボールを置き、カッターを取ってきて箱を開けはじめた。梱包された平たいものを取り出し、「見てください、シド」と明るく笑う。  梱包の中から出てきたのは、黒いフレームの写真立てだった。大きさがさまざまある楕円と四角のフレームが七つ繋がっているものだ。 「これ、買ったんです。娘が産まれたから写真いっぱい撮ろうと思って」  そう言って、ウィルクスは着ているパーカーのポケットに手を入れてスマートフォンを取り出した。写真のファイルを開き、頭を寄せてハイドに見せる。 「フレッドさんに病院で撮ってもらったおれとあなたとハンナの写真、あとでプリントアウトしますね」  病室のベッドのヘッドボードに背中をもたせかけたウィルクスと、その腕のなかにいるハンナ、そして二人のそばで椅子に掛けているハイド。 「いい写真だね」とハイドは言った。娘が手をばたばたさせるので、抱え直す。ウィルクスは満足そうにうなずいた。 「それで、と」  彼はスマートフォンをかまえた。自分のほうを見るレンズに気がつき、ハイドがきょとんとする。 「笑って、シド。ハンナを抱っこしてるとこ、撮りますから」 「え……」  ハイドは娘を抱き直し、ぎこちない笑みを浮かべた。「うー、あーあー」とハンナが手足をぱたぱたさせる。ハイドは彼女の手に手を重ねた。小さな手が父親の逞しい指を握る。 「はい、笑って!」  ウィルクスの声に、ハイドは笑顔を浮かべた。ハンナはじっとレンズを、というよりかは母親のことを見ている。 「七つ飾るスペースがあるから、いっぱい撮らなきゃね」  撮ってもらった写真を見ながらハイドが言うと、ウィルクスは笑った。 「おいおい埋めていくんですよ」  おいおいか。ハイドは娘を抱いたまま思いだしていた。ピアノが上達しないと言って泣いた幼いころ。乳母のアニーが言ってくれた。 「おいおいですよ、シドニーさん。いつか振り返るとき、あなたはびっくりするんです」  おれもおいおい父親になれるのかな。ハイドは思った。  残り五つのスペースが埋まるとき、自分はハンナを愛せているだろうか。ハイドにはわからなかった。  ただ、娘を抱いていると、彼はまた泣きそうになっている自分に気がつく。

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