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「ルカくん、どうしたんだ!?」
「ご、め……なさい。偏頭痛、起こ……薬」
「無理にしゃべらなくていい、薬はどこに入ってるか言えるかい?」
「鞄……ポーチの、中……ぐっ」
先生に背中をさすってもらいながら、胃の中が空っぽになるまですべて出し切ると常備薬とペットボトルに入ったミネラルウォーターを手渡され、口に含んだ。
なにやってるんだろう俺。仕事中なのに、お客さんにこんなことさせて……。あんなことぐらいで動揺なんかするなよ。
「は、い。本当……迷惑、かけ……ごめ……」
先生は力が入らなくなり立ち上がれなくなった俺の体を横抱きで運び、きれいにベッドメイキングされたままののベッドの上へと静かに下し布団を被せてくれた。部屋の照明を落とし、水で濡らした冷たいボディタオルを額にのせられ、渇いたハンドタオルの方を目元にのせておくようにと指示を受ける。
――寂しくて、苦しくて、悲しくて、辛い。
幼い子供が熱に浮かされる時のように「痛い」と呟き続け、ボロボロと涙を流す俺の髪を彼は優しく梳いてくれた。
「大丈夫だよ。このことはお店のオーナーにちゃんと説明して、君が咎められないようにするから。私こそ……すまなかった。念の為、病院にかかって見てもらった方がいい。付き人を呼ぶから少し待っていなさい」
俺がどうしていきなりこんな状態になってしまったのか、頭の良い彼はなんとなく察したかもしれない。それでも、痛くてぐじぐじと膿んでしまい自分でも触れるのを躊躇ってしまう傷口に、あえて触れないでくれた。
――先生が忙しなく扉を閉め、廊下へ出て行ったことを物音で確認する。
仕事以外では結構おっちょこいをしてしまう彼が、ちゃんとホテルのルームウェアから、スーツへ着替えたのかどうか気がかりだけど。ガンガンと金づちで頭を殴られているような感覚は、薬を服用してもなかなか治まってはくれない。ハンドタオルで覆われ暗くなった世界で、痛みから逃避するように、今まであった出来事に思いを巡らせる。
先生って……お客さんだけど、今まで肉体関係をもってきた人の中ではダントツに大人で優しいんだよな。容姿のことでいっぱい嫌な目にだって遭ってきたって言ってたなのに、誰かを助けたくて、人の命を救いたくて医学の道に進んだとかすごいよな。あいつ とは正反対。
俺の周りはあまりにも異常すぎた。――あの学園で日々を過ごしバイトをし始めた時から、案外世の中は優しい人だっているってことを思い知らされた。
最初はそういう連中のことを馬鹿にしたよ。「人間ほど信用も信頼もできない生き物はこの世にいない」って頑なに信じてたから。
でもさ、これがいるんだよ。自分の利益にもなんにもならないっていうのに、他人を助けちゃうお人よしが。初めて会った時は「偽善者が点数稼ぎしててウザいな」って思ったし、実際人を助ける自分に酔ってるだけの嫌なやつもいる。けど……「目の前に困っている人がいたから見過ごせなかった。頭の中でどうしようって思う前に、体が自然と動いてたんだ」だって。それ以外にも「自分がされて嬉しかったことをして、嫌だったことをしないのが人間としての道理だ」とかさ。
以前の俺はあいつらのことを「頭の中お花畑かよ! どんだけ、幸せに暮らしてきたんだっつーの? 馬鹿な連中!!」って嘲笑ってた。
でも、世の中なにもかもが順風満帆で思い通りの人生を送っている人は早々にいないみたいで。
それぞれが異なる痛みや苦しみを抱えて、中には想像できないぐらいひどい過去や傷があったしても毎日を過ごしている。前を向いて、まっとうに生きる道を選び歩いてきた人達がいるんだ。そして、そんな人達に何度も何度も助けられてきた。
俺は、どうだろう。今からでも過ちを悔いて人生をやり直せることはできるかな? 色んな人達に「変わろうと思った瞬間から変われるんだよ」って励ましてもらったのに、変われなかった。
自分にも人にも嘘を吐いて、傷付けて生きてきた。そんな俺でもまだ手遅れじゃない? ……だとしたら俺はどうやってこの先の道を歩いていけばいいんだろう。
幸せって努力して手に入れるもの? それとも自然と掴めるもの?
わからない、わからないよ。
『あなたが――――なら、私も愛して…………』
お袋――。
※
「――検査の結果、なんでもなくてよかったね。頭に異常があると色々大変だから。静流の病気、偏頭痛? っていうんだっけ。これって前からあったの」
あの後、付き人の車に乗せられて闇野の病院まで運ばれた。
あいつが珍しく皮肉を言ってきたり、意地悪もしてこないことにはぎょっとしたよ。腐っても医者は医者なんだなと少しだけ見直した。
それから脱水症状にならないように点滴を打ってもらい、紹介状を持って翌日大きな病院で脳の精密検査をしたが異常はなし。
今は、付き添いをしてくれたジャック(なぜか金髪のカツラを被り眼鏡をしている……)と病院に併設された喫茶店でお茶をしている。
「まあね。ガキの時からお袋や親父のことで情緒不安定になると、ああなるの。情けないけど、ストレス性のものだってわかってるからあの人達の話はなるべく聞かないようにしてたんだけどね。それに全部吐いて薬を飲めば直ぐ治まるし、特に重く考えるものじゃないよ。それより……オーナーは?」
雇われてる人間がお客さんの目の前で具合を悪くして困らせるとかあっちゃいけないし、怒られたりするのかな?
「別にいつも通りだよ。それぐらいで解雇する人でもお店でもないからね。第一『お前は室井 先生唯一のお気に入りなんだから、これぐらいで辞めてもらっちゃ困る。あの人延長いっぱいしてくれるし、変な注文したりしないからお店にとっても嬉しいご贔屓 さんなんだ』って言ってるぐらいだからね!」
ジャックはオーナーの口ぶりを真似しながらカモミールティーを口にした。
そのまま彼は哀愁漂う表情で窓の外をぼうっと眺めた。ふと何を見ているんだろうと、視線を追いかけてみるとそこには銀杏並木を散歩している仲睦まじい親子の姿があった。
鮮やかな黄色い落ち葉を両手で掬いあげては頭上に投げて遊んでいる幼い子どもと、その子どもを必死になって追いかけている父親。ベビーカーに乗って足をばたつかせているふくふくとした赤子。そして彼らの姿を後ろから眺め苦笑している優しそうな母親。
ごく普通のありふれた家族なのに、見ていて少し鼻の奥がツンとして、センチメンタルな気分になる。それを誤魔化そうとブラックコーヒーを煽るように飲んだ。
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