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第9話

*―――*―――*―――* 日曜日。店の定休日である今日。 インテリアの展示即売会に行くという黎一に拉致された眞秀は、その帰りの歩道を歩きながら、久し振りの太陽の光にクラリと一過性の眩暈を感じて溜息を吐いた。 カーテン越しではない陽の光に直接肌を焼かれるのは、何日振りだろうか。こんな時、最近のなんとも不健康な生活を実感する。 目の前を堂々たる歩みで進む背に着いていきながら、秋特有の深みのある青空に目元を緩めた。 煮えたぎるような夏の暑さから解放されたこの時期。街を行き交う人の顔にも、どことなく安堵の表情が浮かんでいるように見える。 好みのソファーセットに出会い、予約購入できた黎一もご機嫌なようで何より。 帰ったらシャワーを浴びて、冷えたサングリアを飲んでベッドに潜り込みたい。それを想像するだけで幸福感に浸ってしまう。 基本的に受動的で面倒くさがりの眞秀は、休日は家に籠ってゴロゴロして過ごすのが好きだ。 黎一に拉致られなければ、間違いなく今日もそんな一日を過ごしていただろう。 だからこそ、黎一から告げられた言葉は想定外で、思わず歩みを止めてしまった。 「お前今日泊まってくだろ?」 「…は?…いや、泊まるも何も、俺このまま帰るから」 「はぁ?意味わかんねぇ事言ってんなよ。帰すわけないだろ」 …どっちが意味わからない事言ってんだよ…。 今日も絶好調の黎一様に、眞秀が抗えるわけがない。 シャワーとサングリアとベッドは遠い夢の世界に消えていった。 高級タワーマンションの上層階に黎一の部屋はある。 所有しているマセラティは地下の駐車場に眠らせたままで、走らせているのを見た事がない。なんとも勿体ない金の使い方をしている。 …まぁあり余っているのだろうが…。 そんな高級マンションのバスルームでゆったりと寛いでいる眞秀は、とりあえず予定だったシャワーは浴びられたな…、そんな投げやりな事を思ってバスタブの縁に後頭部をもたせ掛けた。 温めのお湯に浸かると、筋肉の強張りが解けていくような気がする。その心地良さにハァ…と吐息が零れ落ちた。 たっぷりとお風呂を堪能した後、用意されていたスウェットパンツと長袖Tシャツを着て脱衣所を出る。 ドライヤーを軽く当てただけの髪はまだ湿り気を帯びているが、空調のきいた部屋にいればすぐ乾くだろう。 そしてそんな髪にグシャリと指を差し込んできたのは、この部屋の主。 「まだ濡れてるじゃねぇか」 「すぐ乾くからいい」 手を払いのけて黎一の横を通り過ぎ、真っ白いソファーに座りこむ。 この部屋は全体的に白い。差し色として黒の家具もあるが、7割方が白い。 チラリと視線を流した先に黎一の赤髪が目に映った。 …あれも差し色といえば差し色だな。 白い空間に一つだけの赤がチラチラと視界に入る。 「ビール、ワイン、ブランデー、ウイスキー」 バーカウンターの向こうから聞こえた声に、間髪あけず「サングリア」と答えたけれど、結局用意されたのは赤ワインだった。 バカラのデキャンタとワイングラス、そしてチーズ各種が乗った皿。目の前のガラステーブルに置かれたそれらを見た眞秀は、ある事に気付いて顔をしかめた。 そんな眞秀の様子を見た黎一は、隣にドサリと身を投げるように座りながらニヤリと笑う。 「不服そうだなぁ?マホロちゃん」 「……グラスが一つしかない事にイヤな予感しかしないんだけど」 そう、用意されたワイングラスは一つだけ。 眞秀に何を飲みたいか聞いてきたのだから、飲ませる気があるのは確か。そして、黎一が飲まないなんて事は絶対にないと言い切れる。 今までの長い付き合いから、黎一が何を考えているのか予想がついた眞秀は、ため息と共に背もたれに深く寄りかかった。 「俺は飲まないから、お前だけ飲めばいい」 「遠慮するな。お前にもたっぷり飲ませてやる」 甘い毒を含んだ黎一の声色が、低く囁く。 そして、ゆっくりとデキャンタからグラスに注がれた赤ワイン。それを手に取って口に含んだ黎一は、満足そうに喉に流しこむ。 また赤ワインを口に含むと、片手で眞秀の後ろ髪をグイッと鷲掴んできた。 「…い…ッ…」 眞秀が痛みに呻いた瞬間、僅かに開かれた唇に黎一のそれが押し当てられる。差し込まれた舌を伝って流れ込んでくるのは芳醇な赤ワイン。黎一の部屋にあるという事は、きっとヴィンテージ物だろう。けれど、それを味わう余裕は眞秀にはない。 無理やり注がれた赤ワインの一滴が、口端から零れ落ちて喉を伝う。 口の中から溢れそうになるそれを思わずコクリと飲み込むと、黎一の舌が口腔内に残った僅かなワインを味わうように舐め啜った。 後ろ髪を鷲掴んでいた手が、撫でるように首筋に落ちる。そしてグイッと黎一に引き寄せられたかと思えば、また口移しで赤ワインを与えられる。 「…ッ…ン…」 黎一の肩を掴んで押し離そうとしても、それ以上の力で引き寄せられて唇を貪られる。 口の中のワインがなくなってもしつこく絡みついて吸われる舌が、どちらのものかわからなくなる程の濃密な交わりに、熱のこもった息が混ざり合う。 「…も…いら…ないっ…」 何度も何度も繰り替えし口移しで与えられるワインに溺れそうな感覚を覚えた眞秀が息苦しさに身を捩った時には、ボトルの中身は半分以上減っていた。 そこまで酒に強くない眞秀の頬には、既に朱の気がのぼっている。ほろ酔いの目付きはどこか気だるげで、黎一の情欲を煽った。 「いい感じで酒が効いてるみたいだな?」 「…まったくいい感じじゃない…、むしろ悪い」 「へぇ…。実は俺も気分が悪いんだよ、眞秀」 思わず眞秀は息を飲んだ。 黎一が普通に“眞秀”と呼ぶ時は要注意だ。真剣な時か、もしくは本気で不機嫌な時。 今回は間違いなく後者だろう。黎一の目元が細められ、甘さの無い純粋な毒の色が瞳を染めている。 底の知れない暗い色の危うさから、本能的に視線を逸らした。 「…な…に」 「俺を怒らせる心当たりがあるだろ?」 「…まったく、ない」 「…へぇ?」 剣呑な眼差しに熱が宿ったように思えた瞬間、背けていた眞秀の首筋に黎一が顔を埋めた。 「…っ痛…ッ、…っあ…ッ」 いきなり与えられた強烈な痛みに悲鳴混じりの声を上げ、目の前にある肩を全力で押し離そうともがく。だが、細身に見えて意外と筋肉質な黎一の体はまったく離れる様子を見せない。 肌にプツリと食い込んだのは犬歯か。噛まれてジクジクとした痛みと熱を訴える首筋に、今度は強く吸い付かれる。滲み出る血を舐めるクチュリという水音がやけに耳に響き、羞恥に体が震えた。 痛みと熱さと、どうにもできないもどかしさ。眞秀の目尻に涙が滲む。 「…ンぁっ、…いい加減に…離せっ」 喘ぐように呻く眞秀を嬲る愉悦に、黎一の瞳に嗜虐の色が浮かぶ。 血が滲んでいる噛み痕をワザと舌で強く擦り、抉るようにグリグリと力を込めると、眞秀の体がビクリと小さく跳ねた。 そこでようやく気が済んだのか、黎一は最後にペロリと首筋を舐め上げてゆっくりと顔を上げた。 後頭部を鷲掴んでいた手が背にまわされ、眞秀の体が力強く抱きしめられる。黎一の怒気と情欲に塗れた吐息が、耳朶に触れた。 「…お前、琉人と濃厚なキスしたんだってな?」 「……」 耳元で囁かれた低い声に、一瞬眞秀の思考回路が固まった。 黎一が何に対して怒っているのかがわかり、詰めていた息を大きく吐き出す。 「ちょっと待て。あれはヘルプで、」 「うるせぇ」 「そうじゃなくて、お姫様が望ん」 「黙れ、もう一度噛むぞ」 「……」 ヘルプやれって言ったのは誰だよ!怒りたいのはこっちの方だ。 仕事だからと客の前で琉人から濃厚な絡みをされたあげくに、その仕事を押し付けた本人が嫉妬で怒り狂うとか、おかしいだろ。 苛立ちに黎一の背中を殴りつけると、その仕返しなのか耳の上部に思いっきり噛みつかれる。 「…ッ」 ビクッと背筋を強張らせて呻く眞秀の様子に、黎一は優しく囁く。 「次はこんなもんじゃ済まさねぇからな」 今度は宥めるように優しく耳朶に舌を這わす黎一に、眞秀は抗う術もなく体の力を抜いた。

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