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第10話
*―――*―――*―――*
あと30分程で閉店時間を迎えるLumiereの事務室。
眞秀は、シャツの下に隠れている青痣と噛み傷がある辺りを指で撫で、複雑な感情のこもる溜息を吐き出した。
3日前、黎一に容赦なく噛みつかれた痕だ。噛み痕とキスマークが重なってなんとも凶悪な様になっている。
あそこまで黎一が不機嫌さを表したのは久し振りだった。まだ本気の怒りには到底及ばないが、かなりイラついていたのは確か。
自分は男も女も関係なく好き放題に食い散らかしている癖に、眞秀のそれは許さない。
これまでも、彼女ができてある程度深く付き合うようになった頃に、必ず黎一の横槍が入った。眞秀にしても、それを跳ね除けてまで付き合いたいと思うほど彼女達を愛していたわけではなかった為、面倒臭くなって別れを切り出す。
黎一の行動が見えていない第三者からしてみれば、毎回ある程度すると彼女を振っていた眞秀の方が、よほど“女の敵”に見えていたかもしれない。
店のホームページの更新を終え、今日の事務処理が全て片付いた事を確認した眞秀は、客を送りだしたホスト達が来る前に…と、気分転換も兼ねてトイレへ足を向けた。
新人ホスト達が毎夜ピカピカに磨いているおかげで、Lumiereのトイレは寝転がる事に抵抗を感じないほど綺麗になっている。
冷たい水で顔を洗い、少しだけ気持ちがすっきりした自分の顔が鏡に映る。濡れてしまった前髪を手でかき上げて後ろへ流すと、そんな動きにつられて襟元が緩み、傷跡がチラリと映りこんだ。
3日たった今では、最初の赤紫から色を変えて青く変化している。噛まれた傷口は小さく瘡蓋になり、あとは剥がれ落ちるのを待つばかり。
この痕が残っている間は、鏡を見るたびに否が応でも黎一の事を思い浮かべてしまう。
――そして、大学時代のあの行為も……。
脳裏に蘇りそうになった過去の記憶を振り払うように溜息を吐いた眞秀は、捲っていた袖を戻しながらドアへ足を向けた。と同時に、目の前のそれが開く。
入ってくる誰かの邪魔にならないように壁際へ避けた眞秀だったが、入ってきた人物を見て動きを止めた。
「…お疲れ様です、貴祥さん」
「………」
貴祥も、ここに眞秀がいるとは思わなかったようで一瞬足を止めたが、すぐ何事もなかったようにトイレに入ってきた。
無言で眞秀の横を通り過ぎる際に、チラリと不機嫌そうな眼差しが向けられる。が、その瞳が吸い寄せられるように首元の一点を見つめると、途端に足を止めた。
「…オーナーとの情事の痕を見せつけて自分の立場を強調してんの?」
「……なに、言って」
そこで眞秀は、貴祥の視線が首元に向いているのを見て、その発言の意味を理解した。
羞恥に頬が熱くなり、すぐに襟元の緩みを整える。
「お盛んなようで何より」
貴祥の瞳に浮かんだ嘲笑の色と、歪んだ笑み。
もともと温厚でもなんでもない眞秀は、込み上げる苛立ちに思わず目の前のスーツの襟元を掴んで引き寄せた。
「勝手な妄想で八つ当たりするのはやめてもらえますか。俺と黎一は恋人じゃないし囲われてるわけでもない」
間近から睨み上げると、貴祥も負けじと冷たい眼差しで睨み返してくる。
「ハッ。そんな痕を残されておいて笑える言い草ですね。それともなに、その痕はオーナーじゃなくて別の男って事ですか。………淫乱」
最後の一言は、艶めく低い声でわざとらしく耳に寄せて囁かれた。
何故ここまで挑発してくるのか、貴祥の腹の底がまったく読めない。
意味のわからない挑発に乗って良い事など何一つないとわかっている眞秀は、押し殺した気持ちを腹の内に飲み込みながら、襟元を掴んでいた手を離した。
その時、
「密会か?」
どこか面白がるような声。
いつの間に来ていたのか、開いたドアの前に宗親が立っていた。
驚きに目を見開く眞秀とは違い、貴祥はチッと舌打ちをもらすと何も言わずに踵を返し、邪魔だとばかりに宗親の体を押してトイレを出て行ってしまった。
「……参ったな…」
貴祥の姿が見えなくなったところで背後の壁に背を預けて寄りかかり、思わずと言った調子で本音をこぼす。
いくらなんでも俺の事を嫌いすぎだろ。それも事実ではないのだから余計に頭が痛い。
「だいぶやられてるみたいだな」
フッと笑い混じりに言って歩み寄ってきた宗親は、俯き加減の眞秀の顎にその大きな手を添えて優しく上向かせた。
「…なんて目をしてやがる。落ち着けよ」
苛立ちと困惑の混ざった悩まし気な瞳に苦笑した宗親は、眞秀の下唇を親指で戯れるように撫で、
「眞秀さん、あまり周りを煽るなよ。あんたの色気は目の毒だ。目線一つでもある種の男を滾らせる。手を出されたくなきゃそのダダ漏れの色気をしっかりしまい込んでおけ」
男らしい精悍な顔を近づけ、耳奥を震わせるような低音でそう言い放った。
宗親まで意味のわからない事を言わないでほしい。ダダ漏れの色気ってなに。
反論する気力もないが、そもそも何か言おうにも下唇を親指で押さえられているせいでうまく言葉が出せそうにない。
宗親の手を払いのけようと持ち上げた腕を、もう一方の手で掴まれた。
…本当にいい加減にしてほしい。
誰も彼もが好き勝手な行動をするせいで、受け身で面倒くさがりの眞秀がいちばん被害をこうむっている気がする。自業自得と言えばそれまでだが、ハッキリ言って面白くない。
手を払いのけられないなら…と、首を振って逃れようとした時。下唇にあった親指がスッとどけられた。そして
「……ッ」
唇に触れる熱。
目を見開いた眞秀がすぐに体を押し退けようとすると、それよりも先に宗親の方からさっと離れていった。
押し当てられただけのそれになんの意味があるのか。
手の甲を口元にあてて睨む眞秀に、宗親は揶揄混じりの笑みを向けた。
「色気をしまいこんでおけと言っただろう?」
「…ッそんなの知るか」
蹴りたくなる気持ちを抑え込み、宗親の厚みのある体にドンっと拳を叩きつけるも、揺らぎもしない目の前の相手に尚更苛立ちを覚える。
「二度とこういう事をしないでくれ」
「あんた次第だ」
どこまでもペースを崩さない宗親に何を言ってもどうにもならないと悟るが、それがまた相手の思うツボに陥っているようで面白くない。
グシャリと前髪をかき上げた眞秀は、宗親が何事もなかったように鏡に向き直って身支度を整え始めたのを見て、トイレを後にした。
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