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第17話

*―――*―――*―――* 「明日の仕事が終わったら、そのまま俺の家に来い。聞きたい事がある」 金曜日の夜。 他の店舗を見てくるという黎一が、店を出る直前に眞秀の耳元でそう告げた。 息を飲んで表情を凍り付かせた眞秀を見る黎一の瞳には、なんの色も浮かんでいない。それが逆に、激情を全て飲み込んで腹の内に隠し持っているようで、冷たい何かが背筋を震わせた。 黎一が出て行った後、事務室の椅子に座っていつもの作業をしながら、一昨日の夜から昨日の朝にかけての出来事を思い出す。 あの後交代でシャワーを浴び、スーツをどうしようかと悩む眞秀に、コンシェルジュを通してクリーニングを手配してくれたのは貴祥だった。 夕方までに仕上がるから、それまでゆっくりしていけばいいと部屋着を渡され、結局まだ熱が下がりきらない貴祥を休ませて、その看病で一日を終えた。 クリーニングから戻って来たスーツを着て仕事に行こうとする眞秀の目をまっすぐ見つめた貴祥が、 「…あんた前にオーナーの恋人じゃないって言いましたよね?それ、本当ですか?」 と聞いてきた時には、さすがにすぐ言葉を返せなかった。 戸惑いながらも頷いた眞秀だったが、「そうですか…」とつぶやいた時の貴祥の柔らかい表情が、妙に印象的だったのが忘れられない。 目の前のパソコンからピコンと聞こえたメール着信音にハッと意識を戻した眞秀は、いつの間にか手が止まっていた事に気付いて嘆息する。 …なんであんな事になったのか…。起き抜けで頭が働いていなかったとはいえ、あそこまでの濃厚な絡みは普通とは言い難い。 男同士での抜き合いにそこまで悩むことないだろ…と軽く言えない空気だった。 貴祥の眞秀に対する態度もそうだ。あんなに棘々しかったのに、昨日の朝目覚めてからは、そんなものは一切なくなっていた。 結局昨夜は、体調が戻り切らない貴祥を店に来させず休ませた為、部屋を出て以降改めて顔を合わすのは今夜が初となる。 同伴出勤という事で店に来るのが遅い貴祥とは、まだ会っていない事にホッとするやら緊張するやら…。 一日経っても気まずさは消えず、どんな顔をして会えばいいのかわからない。 「あー…、もう死にたい」 じわりじわりと複雑化する状況に耐えきれず呻き声を上げた眞秀は、大人しく椅子に座っている事も出来なくなって立ち上がった。…少し外の空気を吸ってこよう。 「なんだ、また何かあったのか」 「………」 「あんたいつもそんな顔してるけど、襲われたくなかったらやめろと言っただろ?」 裏口のドアを開けて外に出た眞秀は、まさか金曜という店が混んでいる時にここに人がいるとは思わず、暫し動きを止めた。 「な…んでここに…」 それもまさかの宗親。身一つでは足りないくらい指名が入っているだろうに、何をやっているんだこの人は。 そんな気持ちが伝わったのか…、吸っていた煙草を携帯灰皿に捨てた宗親は、目を細めるようにして笑みを象り、ゆっくりと階段を上がって眞秀の前まで来た。 「どうしても後回しにできない個人的な用事があって、今日はもう帰るところだ」 「あぁ…、そうなんですか」 ナンバー2の宗親が金曜の夜に途中で帰るなど、本当に大事な用事なんだろう。そして今は帰る前の一服といったところか。 そのタイミングにちょうど合ってしまった自分は運が悪い…と言ったら失礼だけど、だからといって運が良いとはけっして言えない。 「それで、今夜の悩ましい顔の理由は?」 「………」 宗親との遭遇に驚いて一瞬だけ忘れていた悩みがまた蘇る。 閉じたドアに背を預けて寄りかかった眞秀は、相変わらず迫力のある相手を見上げて溜息混じりの小さな笑いを零した。 「…自分がよくわからないまま、状況に流される事ってありますか?」 答えは聞かなくてもわかる気がする。宗親が流される様など想像がつかない。この人は逆に、周りを流れに巻き込む方だ。 と思っていたのに…。 「多くはないが、ない事はない」 「………」 驚いた。宗親でも流されてしまう事があるのか…。 いったいどういう時に?何故そんな事に?そうなった時にどう思った? 頭の中で聞きたい事がグルグルと回る。回りすぎて詰まって言葉が出てこない。 あー…もう本当に参った…。この年齢になって、いろんな物事をそれなりに淡々と処理できるようになったと思っていたのに、そんな自分に綻びが生じている。 また吐き出しそうになった溜息をぐっと堪えると同時、気付けばいつの間にか視線を下におとしていたようで、宗親の靴先が動いたのが視界に入った。そして腕を掴まれて強い力で引っ張られる。 ……え? いったい何、と思ったのは一瞬。ぶつかった体と、視界に入るダークスーツを着た首筋。 宗親に抱きしめられたとわかったのは、背に回された腕の感触と、鼻先をふわりと香水の匂いが掠めた時だった。 驚きに硬直している眞秀の耳元で、宗親の低く男らしい声が響く。 「俺は、あんたみたいな美人の色男が、周りに翻弄されて苦しむのを見てるとゾクゾクする。いつもなら、自分の手で苛めてやりたいとも思うが、……なんでだろうな…、あんたを啼かせたくもなるけど、助けてやりたいとも思う」 「…なん…ですか、それ…」 思わぬ言葉に動揺した眞秀は、微かに震える声でそう返すのが精一杯で、毒づく気も起こらない。 宗親は宗親で、珍しく困ったような苦笑いを浮かべてフッと笑いをこぼした。 「俺にもよくわからん」 今日の宗親からは獰猛な気配を感じない。それどころか、包み込むように抱きしめてくる腕の中が暖かくて…。こんな事を思いたくはないが、なんだか妙に安心して落ち着く。 きっと精神的に不安定なせいで、そんな風に感じてしまうのだろう。 考えすぎて疲弊した心がふわりと解ける心地良さに、無意識に安堵の息を零した。 「今夜のあんたは、甘やかしてやりたくなる方だな」 いつになく穏やかな宗親の声。それと同時に背中をポンポンと優しく叩かれ、撫でられる。 まるで子供を宥めすかすようなその行動に恥ずかしくなった眞秀は、少しだけ熱くなった頬を隠すように宗親の肩に押し当てた。 「…なんかあんたの方が年上みたいだ」 「眞秀さんは30だったか」 「あぁ。宗親は26?…もっと上に見える」 「よく言われるが、年齢サバ読みはしてないからな」 どことなく不本意そうな口振りが宗親らしくなくて、思わず笑ってしまう。 まさか宗親と、こんな他愛もないやりとりが出来るとは思わなかった。 年齢に見合わない落ち着いた風体が、存外に心地良い。 ここ最近の、強引に翻弄される雰囲気とは違う、ただ受け止めるだけの空気。 今の自分は、それに飢えていたのだと気づかされる。 「無理やり問い質す気はないが、煮詰まる前に話せよ。俺でよければ聞く」 「……ありがとう」 11月に入ったばかりの冷たい夜の空気が、ゆるりと吐いた眞秀の吐息を白く染め変えた。

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