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第18話

*―――*―――*―――* 今日ほど、仕事が終わらないでほしいと願った事はない。 この後に待ち受ける出来事を考えると、このまま時が止まってしまえばいいとさえ思う。 黎一の言った“聞きたい事”が、貴祥の事だと決まったわけではないけれど、間違いなくそうだろうなと予想はつく。 …ただ、どこまで気付いているのか…。 看病したというだけなら、こんな呼び出しなどされないはず。…という事は…。 そこで眞秀は溜息を吐いた。いったい自分が何に対して恐れているのかがわからない。貴祥とのあの出来事を知られる居たたまれなさか、それとも黎一の怒りを買う事なのか、それとも……。 …自分が本当に恐れているのはなんだ? 在庫チェックを終えたところで時計を見ると、もうすぐ0時になるところだった。閉店まであと一時間。 悩んでも仕方がないと腹を括った眞秀は、捲っていた袖を戻しながら備品などが置いてある部屋を出た。 同じ通路沿いにある事務室の扉は、すぐ目の前にある。 数歩でたどり着くそこへ足を向けた時、斜め後ろにあるプレイヤー用控室の扉が開いた音が聞こえた。 何も考えず反射的に振り向いた先には、 「…あ…」 あれ以来、初めてまともに顔を合わす貴祥の姿があった。 相変わらず玲瓏とした夜の匂いを纏いつかせ、愛想の欠片もない無表情。かと思いきや、眞秀を視界に入れた途端、その瞳に艶やかな光を宿す。 あからさまな変化に息を飲んだ眞秀を余所に、貴祥はゆっくりとした足取りで目の前まで歩み寄ってきた。 「こんな所で何してるんですか、眞秀さん」 「…在庫のチェックを」 これまでの貴祥なら、嫌味を言ってすぐに立ち去っただろう。だが、今日は目の前で立ち止まったまま動こうとしない。 周囲を取り囲む空気が、じわりじわりと濃密さを増す。 息がしづらくなった眞秀が視線を横に反らしたと同時、その頬に貴祥の手の平が当てられた。 「な…に…」 「触れたくなったからそうしただけ」 どこか満足そうに目を細めるその様子は、これまでとはまるで別人のようで…。告げられた言葉の内容と相まって、次第に気まずさが増してくる。 「…あー…っと、仕事が詰まってるので、戻ります」 この場から逃げ出したいという気持ちが読み取れたのか、僅かに口端を吊り上げた貴祥は名残惜し気な様子で頬から手を放した。その際に眞秀の下唇を撫でていった指が淫蕩さを蘇らせるようで、それを振り払うようにすぐさま事務所へ戻った。 後ろ手に閉じたドアへ寄りかかって大きく息を吐く。 …貴祥がおかしい。…いや、今までみたいな攻撃的な態度よりまともなのかもしれないが、セクシャルなものを匂わされる事には戸惑いを感じる。いったい何を考えているのか…。 変わった原因がわからないからこそ、余計に困惑する。 「トッププレイヤーは、本当に性質が悪い…」 眞秀は、数人の顔を思い浮かべて思わず苦い呟きをこぼした。 目の前のテーブルに、ブランデーとロックグラスが置かれる。 どうやら今夜の黎一は、眞秀にそれ以外の物を飲ませる気はないらしい。 ただ、そのブランデーのボトルを見て思わず瞠目した。 ルイ13世。 リシャール同様、店でこれの注文が入る事は滅多にない代物。 隣へ座った黎一に、いったいどういうつもりだと視線を投げかけるも、無表情でただ淡々とそれをグラスに注いでいる。 店の閉店作業を終え、重い足取りで黎一のマンションへ向かった眞秀は、ドアが開くなり、すでに戻っていた部屋の主に腕をつかまれて放り投げられるようにソファーへ座らされた。 そして今に至るが、その間、黎一は一言も言葉を発していない。 エアコンで適度な温度設定がされているにも関わらず、底冷えする何かを感じた。 黎一に促され、グラスを手に取る。唇を湿らす程度に少しずつ味わう眞秀を尻目に、横の男はそれを一気に喉へ流し込んだ。 アルコール度数40度のそれは、そんな飲み方をする物じゃない。眞秀がやったら間違いなく咽るそれを、黎一は平然とした顔で胃の腑へ流し込む。 「実から聞いた。お前、貴祥の部屋に行ったんだってな?」 「…あぁ…、看病を頼まれたから」 途端に、酒が入った腹の辺りがカッと熱くなったのを感じた。 動揺を押し殺したくて、いつもより早いペースでグラスの中身を口に含む。 「貴祥からも聞いた」 「は?…貴祥さんが、何を…」 実が言うならともかく、貴祥が何故…? 思わず、グラスを持つ手に力が入った。動揺を抑えたくて、口に多く含んだブランデーをそのまま一気に嚥下する。喉が焼かれ、鼻腔を通して芳醇な香りがふわりと漂うが、それを感じる余裕もない。 その時、キシリと皮の擦れる音と共に、黎一が体の向きを変えて眞秀の後ろの背もたれに腕を乗せてきた。 「なぁ…、マホロちゃんの頭は鳥並か?この前言った事忘れたわけじゃないよな?」 黎一の手が、優しく眞秀の髪を撫でて戯れる。 柔らかな声色とは裏腹に、その瞳は冷たく仄暗い炎のような揺らめきを宿していた。 「あいつと同じベッドで寝て、…やったんだって?……気持ち良かった?」 「ちょっ…と待て、やってはいない!」 「……へぇ…?」 背筋をゾクリと冷たい何かが這い上がった。 低く優しい声は、殊更に甘く鼓膜を震わせる。だが、瞳の奥底に見え隠れするどす黒い光が、黎一の心情全てを物語っていた。 息苦しさに喘ぐように息を吐きだし、唇をブランデーで湿らせて黎一から視線を外す。そうでなければ言葉が紡げそうにない。 「貴祥さんとは、…抜き合いをしただけだ。朝の生理現象を処理しただけで、深い意味はない」 “意味のないただの抜き合い” それが嘘だという事は、眞秀自身が身を持って知っている。 ただの生理現象で処理しただけとは思えない、あの時の空気。そしてそれ以降の貴祥の変化。けれど、それを黎一に悟られるわけにはいかない。 「貴祥さんが俺に突っかかってきてたのは知ってるだろ。…だから、たぶんそれも、ただの嫌がらせだ」 震えそうになる声を誤魔化すように、少しだけ残っているグラスの中身を飲み干した。途端にクラリと意識が酩酊しそうになる。 ハァ…と熱い吐息をこぼした眞秀は、間近で見つめてくる黎一と目線を合わせた。疚しい気持ちは何もないのだと。 …だが… 「嫌がらせだろうがただの抜き合いだろうが関係ねぇんだよマホロちゃん」 「………」 「お前が俺以外の男に触れさせた事が問題だって言ってんだ」 さらに身を近づけてきた黎一が眞秀の耳元でそう囁き、耳朶を優しく舌で舐る。首筋にぞくりと震えが走り、唇を強く噛みしめた。 手に持っていたグラスを奪われ、黎一のそれと一緒にテーブルへ戻される。一瞬距離が離れたその隙にソファーから立ち上がろうとしたが、力強い腕に腰を掴まれて引き戻された。そのまま黎一の引き締まった体が圧し掛かり、押し倒される。 黎一の自分への執着を知っているだけに、焦燥と恐れと混乱が入り混じって、思考がうまく働かない。どうすればいいのか、どうしたらいいのか。 …息が…詰まる…。

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