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第20話

*―――*―――*―――* 休み明けの月曜日。 昨日一日寝ていた事もあって、体の痛みもなんとか普通に仕事をこなせるくらいまで復活した。 こういう時に内勤の事務職は助かる。もしプレイヤーだったら、目も当てられない仕事ぶりを披露してしまっただろう。 11月の上旬ともなれば、夜の空気はもう冬の様相を呈している。街を歩く人の姿も、コートを着ている率が増えてきた。 ひんやりとした空気を深く吸い込んだ眞秀は、地下鉄の出口から数歩進んだところで足を止めた。 頭が痛い事ばかりが増えていく。そして顔を合わせづらい相手も増えていく。そう思っているのは自分だけだろうけど、それがまた腹立たしい。 『いいかげん俺から目を背けるのはやめろ』 ふと気を抜くと、昨日の朝の事が脳裏に浮かんでしまう。 いつもの、眞秀を揶揄して楽しむ黎一ではない、素の黎一だった。 穏やかで真摯なそれに、胸の内をかき乱される。 深く考える必要もない、ただの戯れだと。そう思いたい眞秀の逃げ道を、黎一は塞ごうとしている。 『よく考えろ』 考えたくない。 何故考えたくないかという疑問、それ自体から目を背けたい。 ただ、もう黎一はこれまでのように見逃してはくれないだろう。 ガードレールに浅く腰をかけて嘆息した。 弱くて狡い自分がイヤになる。 夜の街を行き交う人達は、誰も彼も皆楽しそうだ。飲みに行くのか、これから帰るのか。闇が濃くなる程にぎわうこの繁華街で、自分だけがポツリとスポットに陥っているような感覚に囚われる。 目を閉じて、雑踏の世界に耳だけを傾けた。うるさいくらいの喧騒が、こんな時は逆に落ち着く。 早く行かなければ遅刻だな…。そんな事を思った時、ふと目の前の空気の流れが変わった事に気が付いた。 …なに…? 「何してんですか、こんなとこで」 蠱惑的な低い声に、ハッと息を飲んで瞼を開ける。 長身を少しだけ屈めて顔を覗き込んできたのは、眞秀が顔を合わせづらいと感じている内の一人。貴祥だった。 ここでウダウダと思い悩んでいるうちに、貴祥の出勤時間とかぶってしまったらしい。 通り過ぎる女性たちの視線が、貴祥の横顔にチラチラと注がれている。人通りが多いこんな場所でさえ、まるで浮き上がるように強烈な存在感を放っている艶めいた男。 「…いや…、なんでもないですよ」 首を緩く横に振り、これ以上詮索されるのを避けたくてガードレールから腰を上げた。 貴祥と並び立つと、ちょうど目線が相手の口元に当たる。 先日の事を思い出しそうになって何気なく視線を反らしたものの、そんな眞秀の動揺など見透かされていたようで、貴祥の唇がほんの少しだけ弧を描いた。 「店行くんですよね?」 「あぁ…」 「せっかくなんで、一緒に行きましょう」 ここで断るのもおかしな話だ。一瞬の迷いの後、眞秀は貴祥と並んで歩道を歩き始めた。 「同伴出勤みたいだと思いませんか」 「思いません」 きっぱりと言い切る眞秀に、気分を悪くするでもない貴祥は、むしろ楽し気に流し目を寄越してくる。 好意的な方が居心地悪いなんて、おかしいだろ。そうは思っても、あの一件以来どうにもこうにも居たたまれない思いが湧いてきて、自分でもどうしていいかわからなくなっている。 「俺の事、意識してますよね」 「………警戒はしてます」 身を屈めた貴祥が耳元で囁くように挑発してくるが、本当にやめてほしい。一瞬ぞくりと肌が粟立つ。良すぎる声の攻撃力は、思った以上に大きい。 ようやく店の裏口が見えてきてホッとした眞秀は、無意識に嘆息した。 扉をくぐり、通路を進む。 控室に行くだろう貴祥に会釈をし、ようやく解けた緊張感に肩の力を抜きながら事務室に入ろうとした、瞬間、後ろから強い力で腕を掴まれて部屋の中へ押し込まれた。 「…なっ…ン」 背に感じた衝撃と痛みに眞秀が声を上げようとしたところへ、貴祥のひんやりとした唇が強引に重なる。驚きに目を瞠って反射的に押しのけようとするも、その手をつかみ取られ、互いの指を絡め合うようにして壁に押し付けられた。 普段の冷めた貴祥からは想像もできない荒く貪るような口付けに、眞秀の膝から力が抜けそうになる。抵抗など許すまいと絡みつく熱い舌が、唾液を絡め取って食らい尽くしてくる。 呼吸まで奪われそうな激しさに、眞秀の唇から苦し気な喘ぎ声がこぼれた。それに尚更煽られたのか、貴祥が深く吸い付き、唇を甘噛みする。 「や…めッ…」 「…ッ…」 口の中に広がる鉄錆の味。咄嗟に貴祥の唇を噛んでしまった。 ようやく離れた事に安堵しつつも、傷つけてしまった事に対する罪悪感を抱えて顔を背ける。もっと上手く躱すことだって可能なはずなのに、それも出来ずに唇を噛むなど、…いい年した大人が何やってんだ…。 本当にここ最近の自分は、未熟すぎて情けなくなる。 「そんな顔しないでくださいよ。これくらい平気です。アンタから与えられた傷だと思うとゾクゾクする」 「…ッ…馬鹿な事言うな」 掴まれていた手を取り戻そうと力を込めると、これ以上何かをするつもりはないようで、拘束はいとも簡単に解かれた。 そこで思わず本音が零れ落ちる。 「…貴祥さんが、何を考えてるのかわからない」 「………」 貴祥にとって思いもよらぬ発言だったのか、眞秀をじっと見つめたまま唇を閉ざしてしまう。 どう受け止めたのかはわからないが、無意識に口にしただけの呟きに答えなど求めようとは思わない。本当にただこぼれ出てしまっただけ。 眞秀は短く嘆息し、壁と貴祥の間からするりと身を逃がして自分のデスクへと向かった。そろそろ営業時間になるはずだ。二人でこんな所に籠っていたら不自然でしかない。 「もう店の方に、」 「言ってもいいんですか?」 「…え?」 もう店の方へ行った方がいいと告げようとした眞秀の言葉を遮るように、貴祥の淡々とした声が被せられた。 振り向いた眞秀の目に映ったのは、真剣な眼差しを向けてくる貴祥の整った顔と艶やかな金色の髪。心の底を突き刺すようなその眼差しには、見覚えがあった。 …それは、黎一と同じ……。 動揺に小さく喉を鳴らした眞秀が次の言葉を紡げずに瞳を揺らしていると、一瞬目を伏せた貴祥が、それまでの真剣な空気から軽やかに色を変えて僅かに首を傾げて見せる。 「まぁ、その話は今度にしましょう。店の方に行ってきます」 「…あ、あぁ…、うん」 戸惑う眞秀に、わざと傷のある部分を舌で舐めて笑みを浮かべた貴祥は、次の瞬間まとう空気を一変し、まるで何もなかったように堂々たる歩みで事務室を出て行ってしまった。 その途端、崩れ落ちるように椅子に座り込む。 気が抜けて体を起こしていられなくなり、ぐったりと机にもたれかかった。 …なんで…、貴祥さんは…。 どういうつもりなのか、さっぱりわからない。嫌がらせの延長にしては、悪意を感じない。だからと言って、嫌がらせじゃないならじゃあ何…という事になる。 人の心が全て見えたら楽なのに。と思う反面、全て見えてしまったら自分はいったいどうするんだろう…とも思う。 この一ヶ月で何度深い溜息を吐き出したか数えたくもないが、やはり今夜も癖になったようなそれを吐き出して髪をぐしゃりとかき上げた。

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