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第22話

*―――*―――*―――* 「実さん、呼びました?」 客足がそう多くない月曜日の夜。事務室でのんびり内勤業務をしていた眞秀は、新人ホストに呼ばれて店内へと足を向けた。 呼んだのは実という事でバーカウンターまで来たのだが、こんな曜日にウェイターやヘルプの手が足りないとも思えず、呼ばれた理由がわからない。 不思議そうに実を見る眞秀に示されたのは、既にクーラーに入って冷やされたボトルとフルートグラス2つがセットされたトレーだった。 よく見ればボトルは“アルマン・ド・ブリニャック”のロゼ。あまり詳しくない眞秀でも目にした事のある、最上級とも謳われる老舗ワイナリーのシャンパンだ。 こんな物も置いてあったのかと一瞬目を瞠ったが、オーナーである黎一の酒好きを知っているだけに妙に納得してしまう。 「人は足りてますよね?なんで俺?」 拒否ではなく普通に疑問。わざわざ眞秀が呼ばれたのが不思議で首を傾げながら問うと、相変わらず淡々とした実が有無を言わさない目付きで店の奥にある個室を示した。 「VIP席に運んでください」 思わぬ指示に一瞬戸惑ったが、だからと言って嫌だという訳でもなく。多少の緊張感と共にトレーを腕に乗せた。 時折セレブなどがVIP席を使用しているのは知っていたが、働き始めて一ヶ月の眞秀はまだ入った事がない。掃除は新人ホストがやるし、凄そうだなーと思ったくらいで、そもそも興味がなかった。 何故自分なのか…とか、閉店まであと1時間もないのに今から?などの疑問はあるが、せっかくの機会だからどんな部屋なのか見てみよう。そんな好奇心と共にVIP席へ向かった。 「失礼致します」 ノックの後、静かに扉を開く。軽く頭を下げて、優雅なクラシックが流れる室内に足を踏み入れた。 背後で扉が閉まる小さな音が聞こえたと同時に目線を上げた眞秀は、目の前のソファーに座る人物を見て瞠目する。 その人物以外に人はおらず、客もいない。 立ち尽くしたまま固まる眞秀を指で呼び寄せた人物は、深く寄りかかっていた背もたれから身を起こし、組んでいた足を解いた。 「…黎一?」 「座れ」 自分の隣を顎先で示しながら無表情でじっと見つめてくる黎一に、心臓の鼓動が跳ね上がる。 あの夜から一週間、黎一も忙しかったのか…挨拶くらいはしたけれど会話という会話はほとんどなかった。 8日振りにまともに顔を合わす黎一は、いつもと変わらず泰然としている。 穏やかとは言い難い凄みはあるが、常に落ち着いている様に誰も彼もが『黎一は泰然自若という言葉が似合う』と言うけれど、眞秀はそう思った事はない。黎一の本性は苛烈。ただ、他人の前ではそれを表に出さないだけ。 こういう時の黎一に逆らうつもりもない眞秀は、重苦しく緊張する胸の内を悟らせないよう、淡々とテーブルにグラスとボトルの入ったクーラーをセットする。 重厚な3人掛けのソファーに座っている黎一の横に腰を下ろすと、少し離れ気味のその距離にチラリと物言わぬ視線が投げつけられた。 客とホストでもあるまいし、ピタリとくっついて座る必要はないだろ。 そんな思いで見返した眞秀に、やはり何も言わない黎一は、手慣れた仕草でフルートグラスにシャンパンを注ぎ始めた。 細やかな気泡が薄桃色の液体の中を立ち上る様は、繊細でとても綺麗だ。シャンパンを好む客の中には、この見た目が好きというだけで頼む人もいる。 目の前に差し出されたそれを受け取って、戸惑いながらも一口飲む。ふわりと鼻に抜ける芳香に感動している間に、黎一の方は一息に飲み干してしまった。 黎一がこういう飲み方をする時は、あまりよくない兆候だとわかっている。機嫌がいい時には味わうように飲むからだ。 固唾を飲む代わりに、残りを一気に喉へ流し込んだ眞秀は、吐息混じりの溜息を吐き出してグラスをテーブルへ戻した。 「…話があるなら、仕事が終わってからでもいいだろ?」 「今のお前に俺の部屋へ来いと言って、大人しく来るか?」 「………」 そう言ってまたグラスをシャンパンで満たしている黎一に、何も言えなかった。 今の二人のよくわからない状態で、部屋へなんて行けない。この前の事を思い出してしまえば、蘇るのは羞恥込み上げる出来事ばかり。 顔がジワリと熱くなるのは、シャンパンのせいだと思いたい。 二杯目も煽るように一息で飲み乾した黎一を見るともなしに見ていると、グラスを置いて濡れた唇を無造作に拭っているその瞳と視線が絡み合った。 「…眞秀」 低く囁くように名を呼ぶ声は、背筋を震わすと同時に甘い痺れを呼び起こす。 伸びてきた腕に肩を掴まれて引き寄せられた眞秀は、体勢を崩して倒れ込まないようソファーに片手を着いて体を支えた。 近づく顔を覗き込まれた時にフワリと漂ったフルーティースモーキーな香りは、きっとシャンパンの匂い。それと黎一のスパイシーなフレグランスが混ざり合って、官能的な香りをつくりだす。 黎一が醸し出す艶めいた空気と官能的な香りが纏いつき、体の奥底が微かに疼いた気がした眞秀は、震えるように吐息を零した。 そんな様子をつぶさに眺めていた黎一は、僅かに眇めた瞳にそれまでは無かった刃のような鋭い光を宿した。そして、絡み合った視線を逸らせないように指先で眞秀の顎を掴む。 「…お前が、俺に心を持っていかれるのを怖がっているのは知ってる。あまり人に対して構えないように見えるが、実は物凄く臆病な事も知ってる。だから俺は、お前から来るのを待っていた。けど、…そろそろ待つ時間を終わりにする」 「…黎…一…?」 目を逸らしたくとも逸らせない。 逸らす事を許さない力のある眼差しに、一瞬鮮烈な熱が過ったような気がした。 「俺に堕ちてくるか、俺から解放されるか。お前が選べ、眞秀」 「……ッ」 鼓膜を震わせ、胸に突き刺さる決意の声。 驚きに息を飲んだ眞秀の唇に、らしくない…押し当てるだけの柔らかな口付けが落とされる。火傷しそうな熱を移されたような錯覚に体を震わせた眞秀は、茫然とそれを受け入れるしかなかった。 数秒して離れた黎一は、少しの間その近さで眞秀の顔を見つめていたが、ふと嘆息してソファーから立ち上がった。それはまるで最後の口付けのような…、終わりを覚悟したような…、ただただ静謐な眼差しだった。 何も言えず固まっていた眞秀は、体に絡みついていた濃密な空気から解放された途端に大きく息を吸い込む。とんでもない選択肢を与えられた重さに顔が強張っているのを自覚しても、取り繕う事さえできない。 そして黎一は、眞秀を振り返る事もせず部屋を出て行ってしまった。 最後通牒のような言葉。…いや間違いなくそうだろう。 どうしていいかわからない苦しさに、シャツの胸元を握り締めて喘ぐように息を吐き出す。心臓がドクドクと鼓動を刻み、俯いて唇を噛みしめた。 …今のままじゃダメなのか…?今までの関係では、もういられない? 黎一のいう“解放”が、完全なる別離を示す事だとわかる眞秀は、その手の内に堕ちる事も、かといって完全なる別離を選ぶ事もできない。 覚悟を求める黎一の強すぎる想いと、曖昧さを求める自分。 もう逃げる事はできないと刻み込まれた選択肢は、眞秀の体をソファーに沈みこませた。

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