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第26話

*―――*―――*―――* 一週間の内、前半は比較的客足が少ない。だから、多忙ではないその時に在庫チェックをするようにしている。 酒類は実さんが、食糧関係は調理師さっちゃんと、その補助をしている いーちゃんが受け持ってくれているから、眞秀はそれ以外の備品関係を担当している。 月曜である今夜は、その在庫チェックの為に出勤早々、備品が置いてある一室に籠っていた。 6畳程しかないこの部屋に窓はなく、壁際に設置された棚に所狭しと色々な物が置かれているせいで、圧迫感がすごい。 おしぼり用のミニタオルは、そろそろ買い足しておくべきだろう。実さんから、タンブラーも発注しておいてくれと言われているからそれも。あとは…。 頭の中で必要数を計算しながら、手に持った手帳にメモをしていく。多すぎても少なすぎてもダメ。在庫チェックは、意外と気をつかう作業だ。 立ったりしゃがみ込んだりしたせいで乱れた前髪をかきあげ、フゥ…と一息つく。 一通りのチェックは終わった。あとは発注をすれば完了。 以前の内勤スタッフが一桁間違えて発注した事があったようで、その時は大変な事になったと聞いた事がある。同じ轍を踏まないように殊更気を付けなくてはいけない。 そんな事を思いながら背後にあるドアへ向き直った眞秀は、驚きに目を見開いた。 いったいいつからそこにいたのか…、開いているドア枠に背を預けて立っている貴祥の姿。今夜は香水をつけていないのか、いつも身にまとっている香りがしない。 「声をかけようと思ったけど、集中してたみたいだったので…終わるまで待ってました」 見つめてくる瞳はどこか甘く、声にはしっとりとした色気が含まれている。ゆっくりと言葉を紡ぐそれが余計に艶めかしさを醸し出しているのは、きっとわかってやっているのだろう。 自分だけに向けられた声と眼差しに思わずドキリとしてしまった眞秀は、それを誤魔化すように視線を外して、手に持っていた手帳とペンをジャケットの内ポケットに戻した。 その間に平常心を取り戻し、そして改めて貴祥に向き直る。 「どうしたんですか?」 この前の出来事を琉人に見られた事を思い出せば、こうやって貴祥と二人きりになるのは躊躇してしまう。 ただでさえ黎一と微妙な状態になっているのに、こんな所を見られてしまったらどうなるかわからない。 そんな眞秀の胸の内など知らない貴祥は、少しだけ首を傾げてゆるりと笑みを浮かべた。 「どうしたんですかって…、俺が何を考えているのか知りたがったのは眞秀さんじゃないですか」 「……え?」 それは、先日事務室に押し込まれた時の事。 『…貴祥さんが、何を考えてるのかわからない』 そう呟いた眞秀に、 『まぁ、その話は今度にしましょう』 そう答えたのは貴祥だ。 でもまさか、本気で答えるつもりがあるとは思わなかった。あの場だけのお飾りの返事だと思っていたのに。 そして眞秀は、改めて貴祥の考えを知らされるという事に、怖気づいている自分に気が付いた。 意味が分からないまま翻弄されるのは勘弁してほしい。でも、知ってしまったら無視する事はできなくなる。 聞いてしまったら今まで以上に翻弄されるような気がして…。 無意識に半歩後退った眞秀の動揺に気付いたのか、貴祥は寄りかかっていたドア枠から背を離して、空いた距離を埋めるように一歩近づく。 「気になって仕方がないんですよ、眞秀さんの事が。…俺は、人や物に執着をした事がありません。ハッキリ言って、何もかもどうでもいい。けれど、……何故かな…、アンタだけは、気になるんです」 「気になる…って…」 「俺の事を気にしてほしいとか、他の奴を相手にしないでほしいとか、…こういうの、独占欲って言うんでしょうね。こんな感情持ったこと無いんで、さすがに俺も持て余してます」 初めて見る困ったような貴祥の苦笑いに、目を奪われた。 恥ずかしいことを言ってしまったとばかりの…少しだけ落ち着かない様子に、いつも感じている夜の空気が消える。 艶めかしさより甘さが引き立つ柔らかな表情は、眞秀から言葉を失わせた。 「他人とのキスもセックスも嫌悪感しかわかない。それなのに、アンタを見てると食らいついて啼かせたい衝動が湧き起こる」 「………」 「初めて味わう感情なので、…抑えがきかない」 そしてまた一歩貴祥が近づく。 心臓が大きく鼓動を打つと同時に息を飲んだ眞秀は、気圧されるように後退った。が、その踵が背後の棚にぶつかり、それ以上下がれない事を知って背筋に緊張を走らせる。 ここで何かをされると思ってしまうのは自意識過剰か。 それでも、貴祥の顔からは先ほど見せていた柔らかな表情は消えていて、眞秀を見つめる瞳に淫蕩めいた熱がチラつきはじめている事に気づいてしまえば、どうしても本能が逃げをうってしまう。 一歩…二歩…。三歩目で眞秀の目の前に来た貴祥が見下ろしてくる視線を受け止めきれず、顔を横に背けた。 そんな眞秀の顔を覗き込もうと、貴祥が身を屈めたその時。 「二人で何してんのー?」 耳慣れた声に、びくりと肩が震える。 「…琉人…さん?」 貴祥の肩越しに見えたのは、にこにこと笑う琉人の姿。 そういえばドアを開けっ放しだったと思い出した眞秀は、貴祥が苛立たしげに嘆息した事に気付いて目の前の顔を見るも、既にその瞳は眞秀ではなく琉人に向けられていた為に視線が合う事はなかった。 「密室で二人きり、それも、なーんか距離近いしー?」 楽しそうに笑いながら言っているが、空気がどこか刺々しい。 コツリコツリと靴音を鳴らしてゆっくり近づいてきた琉人は、殊更にっこりと微笑んで貴祥を見据えた。 「貴祥さん、指名、入ってましたよ?」 「………」 人懐っこい犬のように見せかけているが、実はそうではないと貴祥も気付いているのだろう。琉人を見る眼差しが僅かに眇められ、温度を感じさせない抑揚のない声が、 「わかった」 そう一言だけ答えた。 目の前にいた貴祥が離れると同時に、それまで感じなかったひんやりとした空気が動く。 あからさまではないにしろ、友好的とはとても言えない雰囲気に身動ぎさえできなかった眞秀は、そこで小さく溜息を吐いた。 …どうしてこんな事に…。 途端に、チラリと向けられる二対の眼差し。一対は笑みの中に挑発的なものを含ませ、もう一対は艶めかしさの中に執心が見え隠れしている。 絡みつくそれらを振り払うように軽く頭を振った眞秀は、貴祥の横をすり抜けて部屋の真ん中まで移動した。 「俺も戻りますので、二人も店に戻って下さい」 琉人は本当に呼びに来ただけのようで、眞秀の言葉に意外とあっさり先に備品室を出ていった。もっと駄々をこねるかと身構えていたのに…、安堵にホッとして気持ちが緩む。 続いて貴祥も後を追うように歩き出したかと思いきや。 「…もう少し二人でいられると思ったのに、残念」 眞秀の横を通り過ぎる際、僅かに身を屈めて唇を耳朶に触れさせ、ぞくりとする低い声でそう囁いた。 首筋に伝わる甘い痺れに一瞬唇を噛みしめた眞秀の様子をどう見たのか…、どこか満足そうに瞳を緩めた貴祥は、今度こそ備品室を出ていった。 後に残された眞秀は、詰めていた息を吐き出して片手でぐしゃりと前髪をかきあげる。 …参った…。貴祥があんな事を言うなんて思ってもみなかった…。 最初は嫌われていたはずなのに、…何故? 向けられる甘やかな視線が、声が、苦しい。 頼むから放っておいてくれと、波立つ感情などいらないのだと、胸の内で叫ぶ自分がいる。 人や物に執着をした事がないと貴祥は言ったが、それは眞秀も似たようなもの。ただ、その意味合いは少し違う。 興味がないわけではない。本気になるのが怖くて、心を動かされることが怖くて、夢中になる前に引いてしまう。 執着をした事が無い、のではない。執着したくない、のだ。 …そんな自分にどうしろと…。 去り際の貴祥の声を思い出した眞秀は、じわりと耳奥に染み込む甘さを振り切るように足早に備品室を後にした。

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