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第29話
*―――*―――*―――*
2日間ヘルプをすると言っていた美波は、当たり前だが翌日の土曜日も姿を見せた。
もう一つの店舗でナンバー3だというのに、こんな繁忙日に本店でヘルプなんてしていてもいいのだろうか。
そんな事を実に呟いたら、「美波さんの方からオーナーへ希望したそうです。それがあまりにもしつこいから、断るのが面倒になって好きにさせたと言っていました」そんな事を教えてくれた。
黎一が呼んだのだろうと思っていた眞秀は、その事に少しだけホッとした。そして、ホッとした自分に気付いて、なんで安心してるんだよと自問自答する。
昨日から思考がグラグラと揺れ動き、定まらない。無理やり意識の方向を変えているような息苦しさが、腹の底で汚泥のように淀んでいく。
黎一は、セカンド店の方に顔を出してからこっちに来るそうで、今日はまだ姿を見せていない。その存在を感じると途端に平穏な気持ちでいられない眞秀は、いない事に安堵する。
そしてまた、安堵した自分に思い悩む。
なんという歪な状態か…。思いの糸が絡みすぎてぐちゃぐちゃになり、解くことができない。
…なんだか物凄く疲れた…。
今夜もウェイター業を手伝っている眞秀は、無意識のうちに溜息をこぼした。
その時。
「そんなに周囲を蠱惑してどうする気だ、眞秀さん」
カウンターに手をついて立っていた眞秀の耳朶に、空気を震わす艶めいた低音が触れる。
背後を振り向かなくてもわかる。甘いウッド系の香りと、包み込むようなどっしりとした存在感。
宗親だ。
僅かに肩を震わせた眞秀に気付いたのか、喉奥で笑う声が聞こえる。
「眞秀さん、今夜の予定は?」
「特に、何もないですけど」
「少し話したい事がある。店が終わったら俺に付き合ってくれないか?」
「………わかりました」
しばし逡巡したが、断る理由もなく躊躇いがちに頷く。
そんな眞秀の頬を、後ろから伸ばした手でするりと優しく撫でた宗親は、「また後で」そう囁くように一言残して背後から離れていった。
そこでようやく振り向いた眞秀の目に、次の指名客がいるテーブルへ向かう宗親の姿が映る。
…話したい事とはなんなのか…。
今更ながらに、そういえばこんな風にわざわざ時間をとって会うのは初めてだと気が付いた。
「ここは?」
「俺の家」
「……」
店が終わった後。土曜の夜なんて、アフターを入れたかった客が山ほどいただろうに、宗親はそれを全て断ったという。
そこまでして話したい事とは何?
タワーマンションの高層階。やはり高級マンションに住んでいた宗親は、戸惑っている眞秀を気にする様子もなく、まるで何度もここに来ている人間を相手にするかのように当たり前にドアを開けて部屋の中へ入っていく。
躊躇っている眞秀の方がおかしいのかと考えてしまうほど自然で構えない様子に、肩の力が抜けた。
玄関口で置いてきぼり状態になっている事に気付き、ここまで来て帰る事も出来ないだろう…と靴を脱いで宗親の後を追う。
廊下の突きあたりのドアをくぐると、そこは広いリビングになっていた。
意外なほどナチュラルテイストな雰囲気に、思わず立ち止まって目を瞬かせる。
あまりに宗親のイメージと違いすぎて、本当にここに住んでいるのかと聞いてしまいそうになった。
「コートとジャケットはそっちに」
示されたのは、ウォークインクローゼット。宗親が入った後だった為、ドアは開いていて中の明かりが灯されたまま。
覗いてみると、入ってすぐのところに簡易的に使うハンガーラックが設置されていた。
奥には、たくさんのスーツや小物が所狭しと並んでいる。ハイブランドの宝庫ともなれば圧巻の光景だ。
眞秀は感嘆しながら、自分のコートとジャケットをハンガーに掛けさせてもらった。
好きなところに座ってくれと言われて、二つある3人掛けソファーの片方に腰を下ろす。
その間に準備をしていたのか、キッチンカウンターの向こうからボトルやらアイスペールやらを持ってきた宗親が、それらをテーブルに並べた。……大量に…。
「……誰がこんなに飲むんですか…」
思わずこぼれた呟きに、宗親は何も答えず低く笑うだけ。
よくわからないまま、店を出てここに連れてこられて、そして今もまだ訳がわからない。指示されるまま部屋に入り、コートとジャケットを脱ぎ、ソファーに座る。なんで自分は宗親の部屋にいるんだろうか…。そんな今更な疑問さえ浮かぶ。
思考が追い付いていないのか、ただ言われるがままに動く自分はまるでロボットのようだと、頭の片隅でもう一人の自分が呆れている気がする。
考えることに疲れてしまった頭が、もうこれ以上考えたくないと働きをストップしてしまったのかもしれない。
麻痺する思考回路に少しだけ目を閉じた眞秀は、その数秒後にゆっくり瞼を押し開くと短く息を吐き出した。
「………それで、話ってなんですか」
今夜ここを訪れたのは、話があると言われたから。その“話”を聞けば、今のよくわからない状況が少しは変わるのだろうか。
そんな思いで問いかけた眞秀に、宗親は柔らかな視線を寄越すだけ。
宗親のプライベート空間で向かい合って座り、沈黙の中で穏やかに酒を酌み交わすほど親しい関係じゃないのだから、はっきり言って落ち着かない。ただでさえ、眞秀を見る眼差しが常よりも甘いのだ。居心地が悪く感じても仕方がない。
「飲みながら話そう。あんたにとっても、その方がいいだろう」
「…それは、どういう…」
戸惑う眞秀を尻目に、慣れた仕草で2つのロックグラスに氷とウイスキーを注いだ宗親が、片方を眞秀に差し出した。礼を言って受け取り、目の前で旨そうに飲む相手につられて自分も口をつける。
傾けた事でカランと小さく音を立てる氷と、口内を湿らせるウイスキー。その芳醇な香りに目を見開いた。
「旨いだろ」
「はい。これは?」
「イチローズモルト・ダブルディスティラリーズ」
「初めて飲みます。おいしいですね」
そんなに酒に強くない眞秀は、舐めるように少しずつ味わう。じわりと喉を焼く熱さと、鼻に抜けるオリエンタルな香り。クラリとした軽い酩酊感が、体に入っていた余計な力を抜く。
背もたれに寄りかかり、度数46度の琥珀色を眺めた。氷が解けていくのか、帯のような揺らめきが漂っている。それが綺麗でなんとなく見惚れていると、不意に宗親の視線を感じて目線を上げた。
「……」
「……」
もう飲み終えたのか、すでに氷だけになったグラスはテーブルに置かれ、次を注ぐでもなくただ眞秀を見つめている。
心の内までも透かして見るようなその眼差しに、まるで金縛りにあったように身動きが取れなくなった。
「そのグラスを空けたら…な」
「……俺は酒に強い方じゃないので、時間…かかりますよ」
「構わない。旨い酒は、ゆっくり楽しめばいい」
言葉通り、急かすでもなく足を組んでゆったりと構える宗親の様子に、わかりましたと小さく頷いた眞秀は、遠慮なく味わうことにした。
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