31 / 51
第30話
それからどのくらいたったのか…、本当にゆっくりとグラスを空けた眞秀がそれをテーブルに置くと、二杯目を楽しんでいた宗親が背もたれから体を起こして、別のボトルを手に取る。
すでに酩酊感が強くなっている眞秀は、鈍くなった思考を抱えてそれでもなんとか制止をかけた。
「これ以上飲んだら完全に酔うから、俺はもういらないです」
「酔った方がぶちまけられるだろ」
「……え?」
「ここ最近の、思いつめた顔の理由。酔った勢いで吐き出せばいい。オーナーの事でもなんでも」
「………宗親…」
「俺もあんたも酔ってる。何を言っても聞いても、明日になれば全て忘れてるはずだ」
だから話せと…。酔っ払いが何をしても言っても、ただの戯言だから…と。
そんな逃げ道まで用意してくれて、吐き出す場を作ってくれる宗親。何故ここまでしてくれるのか、酔った頭で考えても答えは見つからない。
もういい加減、悩みすぎてどうにかなりそうだった。考えないようにしてるのに、気付けば黎一の事ばかり考えている。もう関係がなくなってしまったのだから、いくら悩んでもどうにもならないのに、それでも考えてしまう。
もう、いっぱいいっぱいで、苦しくて……。この気持ちを、吐き出してもいいのだろうか。
深い溜息と共に前髪をぐしゃりとかき上げた眞秀の前に、コトリと小さな音をたててグラスが置かれた。視線を上げた先では、宗親が既に3杯目となるそれを美味しそうに味わっている。ぶちまけろと言った割には特にそれを強制しないラフな様子に、ふっと気が緩んだ。
グラスを手にとり、新たなウイスキーで唇を湿らせる。氷の入っていないそれは、手の温度を抱き込んでフワリと香りをわき立たせた。
「……俺と黎一は、小学校からの付き合いで、いわゆる“親友”のようなものでした」
濡れた唇から、ほろりほろりと言葉がこぼれ落ちる。宗親は、ウイスキーを飲みながらそんな眞秀の言葉を静かに聞くだけ。
中学の時、高校の時、そして大学時代。酒に酔ってセックスをした事。よくわからない黎一の執着。
社会人になり、それでもやはり距離感は近しいまま。どこかで、友人の域を越えている近しさだと気付いていたけど、それが嫌ではなかった事。
先月いきなりこの店に連れてこられて戸惑った事。琉人や貴祥の名前は出さないけれど、他の人間とのやりとりで嫉妬のようなものを向けられた事。
黎一に選択を迫られ、選べなかった自分は、完全に突き放されてしまった事。
親友だと思っていたはずなのに、突き放されて苦しむ自分は、いったいどういう事なんだ…と。美波とのやりとりを見ていると苦しいなんて…おかしいだろ…、と。
酒の勢いを借りて、全ての思いをぶちまけた。
気付けば手元にあるグラスは空になっていて、後から思えば完全に飲みすぎだった。
感情の抑制がきかず、苦しさに声が震える。自分の中にある認めたくない気持ちが、もうすぐにでも唇からこぼれ落ちそうで…。それだけは口にするまいと、最後に残った理性の欠片が喉を塞ぐ。
両膝に肘を着き、俯いた顔を手の平にうずめる。気付いてはいけない気持ちを無理やり押し込めて蓋をしたけれど、飲み込んだそれが腹の内で鉛のように重くなったのを感じた。
「………」
そんな眞秀を見ていた宗親は、静かに双眸を細めた。
仕事中は平静を保っているように見えていた為、ここまで苦しんでいた事を知って若干の苦さを噛みつぶす。
まさか黎一とそんな事になっていたとは思わなかった宗親は、予想以上に弱っている眞秀の様子に、自分の腕に抱き込んで慰めたいという思いが湧き起こったのを自覚した。
ただその一方で、黎一の為ではなく自分の為に苦しむ眞秀を見てみたいという…どこか歪んだ思いを抱くのも事実で。
年上の落ち着きを見せたかと思えば、悩まし気な様子も見せる。しっかりしているように見えて、不意打ちに弱い。同じ男だというのに、表情や目線一つがやけに色気を醸し出していて…。気付けば、妙な独占欲が己の身の内に存在している。
特に自分のものにしようとは思っていなかった宗親だったが、こんな姿を見てしまえば、手を伸ばしてみたいと思うのは仕方がないだろう。
でも今は、苦しみで壊れてしまいそうな眞秀をなんとかしてやりたいと思う。
たとえそれが、どんな手段だったとしても……。
「宗親さん、本当にもういらないから。これ以上飲んだら確実に落ちます」
グラスに次を注がれた事に気付いた眞秀は、鈍る意識で必死に抵抗する。
これ以上飲んだら間違いなく意識をなくす。さすがにそれは失礼だし、そんな姿を見せなくないというのもある。
だからこれ以上は絶対に飲まないと決めていたのに…。
それまで向かい側に座っていた宗親が、ゆったりとした動きで眞秀の隣に移ってきた。その手には、ウイスキーの入ったロックグラス。
触れるほどの近さに座られると、空気を伝ってほんのりと宗親の体温を感じる。どこか落ち着くそれに引き寄せられそうになり、慌てて己を押し留めた。
「…もう、帰ります」
「こんな状態のあんたを、帰すわけがないだろ」
宗親の言葉を聞かなかったことにして、ソファーから立ち上がる。いや、立ち上がろうとした。けれどそれは、横から伸びてきた腕に引っ張られて叶うことはなかった。
「……ッ…!」
「帰さないと言っただろ?」
よろめいたところを抱き留められ、宗親の体に凭れかかってしまった。力の出ない手で押し放そうとしても、そんな抵抗など微塵にも感じていないだろう片腕が背に回され、抱え込まれる。
「宗親…っ」
「今夜くらいは、酒に溺れて俺に縋っても誰も文句は言わない。…だから」
“遠慮なく落ちろ”
「……!」
強引に塞がれた唇。うっすらと開いていた隙間から舌をねじ込まれ、琥珀色の液体が注ぎ込まれる。それは喉を焼き、腹の底に溜まる何かを蒸発させ、思考回路を焼き切る。
数秒で解放された唇は、喘ぐ眞秀の吐息を奪うようにまた塞がれ、理性を消し去る強い酒精がさらに注がれる。コクリと飲み込むたびに全てがあやふやになり、弱い感情がむき出しになった。
「…っぅ…」
…頭が痛い…。胃がムカムカする…。
眞秀は、浮上した意識を自覚すると同時に襲う不快感に、たまらず呻き声をもらした。
ベッドの中で寝返りを打とうにも、体は重いし頭はグラグラするしで…、とにかく辛い…。
風邪を引いたのかこれは…、と眉を顰めたまま開いた視界に映ったのは人肌で…。
………え?
一瞬頭痛と吐き気を忘れたものの、頭を起こそうとしてまた撃沈する。
考えたくても、あまりの不調にうまく思考が回らない。
「体がつらいなら無理して起きなくていい」
小さな笑いと共に耳に入った聞き覚えのある声に、眞秀は目を見開いた。
体にかかっていた上掛けが少しだけ持ち上がり、見事に引き締まった体が目の前に現れる。
それはもちろん裸で、自分の体を見下ろせば同じように全裸で…。
そして昨夜の事を思い出した。宗親の部屋に招かれ、ウイスキーを飲んで酔っ払い、そのあと………。
その後の事が思い出せない。
カーテンの隙間からこぼれる光を見れば、完全に夜は明けていて、全裸で宗親のダブルベッドに寝ていて…。
“遠慮なく落ちろ”
耳奥に蘇ったのは、情欲の込められた低い声。
この体の重苦しさは…、まさか…。
茫然とする眞秀に気付いたのか、上体を起こした宗親はその手を伸ばして眞秀の首筋をするりと撫で上げ、
「言っただろ、酒に酔って起きた事なんて翌朝になれば忘れる。だから気にするな、と」
優しげな眼差しでそう言った。
更には、
「軽くシャワーを済ませてあるが、気になるならバスルームは勝手に使ってくれ。…抱えて思ったが、眞秀さん、あんた身長の割に軽すぎだ」
そんな事まで言われてしまったら、もう何が起きたか聞かなくてもわかる。
頭痛が酷くなった気がして、目を瞑って顔をシーツに押し付けた。いつも宗親が身にまとっている香水がふわりと香って、それにまた動揺する。
貞操観念が強いわけじゃない。快楽に流されやすいのは自覚している。けれど、これは黎一に対する裏切りだと、何故かそう思う自分がいた。
眞秀が誰と何をしたって黎一には関係ないし、黎一ももう興味はないだろう。でも、今の心境で誰かと体を重ねてしまうのは、とてつもない罪悪感が襲う。
シーツに顔をうずめたまま身動きしなくなった眞秀をどう思ったのか…、宗親が上から覆いかぶさってきた。眞秀の両脇に腕が置かれ、耳元に唇が触れる。
「どうにもならない時は俺のところに来いと言っただろ。俺を利用すればいい。オーナーとの事を考えて苦しみたくないなら、忘れられるまで甘やかしてやる」
そして、耳朶に触れていた唇が肌をなぞりながら下がっていき、襟足あたりに柔らかく押し付けられる。くすぐったいその感触にぞくりと肌が粟立った瞬間、容赦なく吸い付かれた。
「…ぁッ」
キリッとした痛さに体がビクンと跳ね上がる。
戯れなどと言えないくらいの痛みは、眞秀の首筋に濃い紅色の華を咲かせた。
ともだちにシェアしよう!