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第31話
*―――*―――*―――*
悶々としたままいつの間にか日曜日が過ぎ去り、また一週間が始まる。
眞秀は、土曜夜の事を思い出すたびに仕事の手を止め、手が止まっていた事に気が付くとハッとしたようにまた動かす。
今日は締日。月末払いの給料の為、土曜日までのプレイヤーの売り上げをまとめる日だ。間違いは許されないのだから、ボーッとしてはいられない。
時計を見ると、針は0時半を指している。もう半分ほど計算が終わっているけれど、まぁ間違いなく残業にはなるだろう。計算が終わった頃にはプレイヤー達もいなくなっているだろうし、そうしたらレジの集計をして終わりだ。
パソコンの画面に映し出されているトッププレイヤーの売上額を見て、若干遠い目になってしまうのは仕方がない。桁が違う。
相変わらず貴祥と宗親が1位2位を維持し、4位に琉人が上がってきていた。以前聞いた時は5~6位をうろうろしていると言っていただけに、今回は本当に頑張ったのだろう。
それを凄いなと思うと同時に、2位の宗親の名前を見てまた固まってしまう。
『俺を利用すればいい』という言葉が、戸惑いと躊躇いと悩みをもたらす。
黎一を忘れる手段として自分を使えと言う宗親。酔いに酔ってしまい記憶にはないが、間違いなく関係を持ってしまっただろう相手。
前から薄々自覚はあったものの、やはり自分は快楽に流されやすいと今回のことでハッキリとわかった。さすがに嫌っている相手に流されることはないが、好意的なものを感じている人物には流されてしまう。
そんな自分に落ち込みもするし、だからと言ってそう簡単に変わる事もできず…。
そこで思いっきり溜息を吐き出した。
とりあえず今は仕事を終わらせる事を優先しよう。悩むのはその後だ。
集計作業の後半は、売り上げが少なかったり何もなかったりするプレイヤーで、計算もすぐに終わる。
個人の集計結果と店全体の売上額を照らし合わせ、数字が合致すれば完了。
「…よし」
あとはレジの方をチェックすれば帰れる。
時計を見ると、いつの間にか時刻は1時40分を示していた。想定内の時間でホッとする。
パソコンの電源を落とし、捲っていたワイシャツの袖を戻しながら店へと足を向けた。
殆どの明かりを消された薄暗い店内は、少し前までの騒々しさを全く感じさせない静寂に満ちている。
さっさと終わらせてさっさと帰ろう。そんな思いで、レジのある場所へ向かおうと踏み出した足が、…止まった。
心臓の鼓動が一度だけ激しく胸を叩き、そして息を飲む。
…なんで…、ここに…。
カウンター前のスツールに座る人影。こちらに背を向けていても誰なのかわかる、赤い髪色。その目の前にあるのは、ワイングラスとボトル。
オーナーなのだから自分の店にいるのは当たり前だが、眞秀が残業しているのを知っているだろう黎一がここに残っている意味がわからない。だいぶ前に帰ったと思っていたのに…。
…いや、もう黎一の中では無関係になっているんだ。俺がいようがいまいが、気にもならないか…。
そんな結論にまた落ち込みそうになった眞秀は、こぼれそうになる溜息を飲み込んで足を踏み出した。
レジへ行くには、カウンターの横を通らなくてはいけない。わざわざ迂回してテーブルの間を抜けていくのもおかしな話で、胃がキリキリと痛みそうな緊張の中で眞秀は黎一の背後を通り抜けようとした。
「お疲れ様です」
従業員なのだから挨拶は当たり前。軽く会釈して足早にレジへ向かう。
ところが、
「……ッ…な…に」
黎一の背後を過ぎる直前、いきなり腕を掴まれた。
跳ね上がった鼓動が全身にビリッとした痛みを走らせ、一瞬にして背筋が冷たくなる。
咄嗟に振り解こうとしたけれど、それで振り解けるくらい軽い気持ちならそもそも黎一は腕を掴んでこないだろう。案の定、逃がさないとばかりに掴む力が増す。
それでも本能が逃げたがる。今の自分たちの関係で普通の会話になると思えるほど、能天気ではないつもりだ。
「黎一…っ」
眞秀の呼び声にようやく振り向いた黎一の瞳には、これまでにはない昏さと苛立ち、そして温度などどこにも見当たらない冷たさが広がっていた。
思わず息を飲んだ眞秀は、無意識に後退る。だがそれを許す黎一ではない。逆に、腕を引いて眞秀の体を引き寄せた。
久し振りの近い距離に眞秀を襲うのは、緊張と眩暈。
いったい黎一はどういうつもりでこんな事をするのか、意味がわからない。
浅くなる呼吸に息苦しさを感じながら昏い瞳を見返すと、その瞳がふっと動いた。ジャケットを脱いで襟元を寛げている眞秀の首筋に辿り着いた途端、無表情だった黎一の口端が僅かに吊り上がる。
それは、笑みと呼ぶにはあまりにも凄惨なもので…。
眞秀の背筋を震わせたのは恐れだった。
今まで言い合いをした事は何度もあるけれど、黎一に恐れを抱いた事なんてない。それなのに、今は黎一が怖くてたまらない。
飲み込まれそうな重い空気に怖気づきそうになった眞秀は、次の瞬間、茫然と固まった。
頭の上から何かがこぼれ落ちる感触。それはこめかみや額を伝って顎先まで流れ、ワイシャツをボルドー色に染めた。
…な…んで…。
空になったワインボトルを静かにカウンターに置いた黎一が、身を乗り出してくる。茫然とする眞秀の頬に触れる暖かく柔らかいものが、滴る赤ワインをぬるりと舐めとった。
「誰彼かまわず抱かれるマホロちゃんにとって、ホストクラブは天国のような場所だよなぁ?」
「誰彼かまわず抱かれるって…、なんだよ…それ…」
低められた声に囁かれる侮辱ともいえる言葉に、唇が震える。
赤ワインに濡れて張り付くワイシャツが不快で、黎一の蔑む瞳が痛くて…。
言い返そうと開いた唇からそれ以上の言葉を発する事はできなかった。
「そこまで濃い跡を残すのは男だろ。…まぁお前が誰と何をしようが俺には関係ないけどな。店の人間関係を悪化させない限り好きにしろ」
吐き捨てるように言われたそれに、さきほど黎一の視線が見つめた先を思い出した。
襟で隠れるか隠れないかギリギリの場所。先日そこに付けられた赤紫色の跡。
眞秀には、もう何も言う事はできなかった。
酒に酔った勢いでしてしまった? 酔っていたから覚えていない?
そんな事を言ってどうなる。どうにもならないし、余計に冷たい眼差しを注がれるだけだ。そして言葉通り、黎一にとってはどうでもいい事なのだろう。
黙り込んで視線を反らした眞秀の様子をしばらく眺めていた黎一だったが、鼻先で笑うとスツールからおり立った。そして何も言わずに店を出ていく。
後に残された眞秀は、黎一の気配がなくなった瞬間にふらりと倒れそうになった体をカウンターへ寄りかからせた。
血の気が引いてしまったのか、微かに頭痛がする。
全てが自業自得だ。…そう、何もかも、自分の行動が引き起こした事。
本気になるのが怖くて、気付かない振りをして様々な事から目を逸らし、楽な方へ流される“事なかれ主義”。
黎一の執着に気付いていても、それに向き合うでもなく心地良さだけを甘受していた。
ぬるま湯に停滞したままを良しとして、それ以上もそれ以下も求めない。
間違いなく安寧だ。満たされる事もないけれど、枯渇して飢えることもない。
その逃げの態度がどれほど周りを――真剣な想いを持つ者を――傷つけたのか。
去り際に見えた黎一の横顔。気のせいかもしれない、見間違いかもしれない。チラリとよぎったように見えた感情は、
“苦悩”
初めて見る黎一の苦しみの色は、眞秀の心をひどく抉った。
こうなってようやく自分の愚かさに気付くなんて…。
「………」
額にかかる前髪を後ろに撫でつけると、その髪先から赤い雫がポタリと床に滴り落ちる。
それがまるで、自分が傷つけてしまった“誰か”の流した血のように見えて…、
泣きたくなった。
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