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第32話
*―――*―――*―――*
週半ばの今夜は、手が空いて休息も自由にとれる。
普通なら喜ぶところだが、今の眞秀にはとてつもなく憂鬱な時間だった。
時間に余裕ができてしまうと、余計なことばかり考えてしまう。
忙殺されて何も考えられない状態の方がどれだけ心安らぐか…。
内勤の業務が一段落ついたところで息抜きの為に裏口へ出てきたものの、出るのは溜息ばかり。
階段の手すりに寄りかかって見上げた夜空は、ビルの隙間からほんの僅かにのぞいているだけ。
街の明かりが強すぎて、星なんてものは見えない。
自分の吐く息が白い蒸気となって空気に溶け込むだけの静かな空間。表通りの賑やかさはこの路地裏まで届かず、まるで別世界だ。
コートを着てくれば良かったな…、なんて後悔するほどには、11月末の夜の空気は冷え込んでいる。
それでも、考えすぎて暴走している頭の中だけは、燻る熱がジリジリと思考を焼いていた。
何が正しくて何が間違っているのか…。自分の心に素直に従うとしても、相反する二つの気持ちがある場合はどうしたらいいのだろうか…。…って今更考えても、もう遅い…か。
一昨日の夜。黎一にワインをぶっかけられて、そこでようやく自分の逃げの行動が黎一を傷つけていた事に気が付いた。
本当に“今更”だ。
溜息が白く可視化されるこの季節。癖になったようにこぼれ落ちるそれに情けなさを感じて、手すりから身を起こした。
どれだけここにいても、体は冷えても頭は冷えない。風邪をひく前に戻ろう…。そう思ったのに。
眞秀が動くより先に裏口のドアが開いた。
まさか黎一?
ドキリと跳ねる心臓に息を飲んだと同時、フワリと香った匂いと明るい髪色に相手が誰かを悟った。
「こんな所にいたんですか。探しました」
暖房で乾燥した空気にさらされていたせいか、僅かに掠れた声は相も変わらず艶めいていて、見つめてくる瞳は甘く笑む。
「…貴祥さん」
後ろ手にドアを閉めた貴祥は、階段途中にいる眞秀の目の前まで来ると少しだけ首を傾げた。
「外出するところですか?それとも休息?」
「…休息です。もう戻りますけどね」
さすがに寒さで指先が痛くなってきた。
戻ろうと思ったけど、どうやら自分を探していたらしい貴祥を無視するわけにもいかない。
仕方がないからスラックスのポケットに手を入れて、また手すりに背を預けた。
「俺に何か用が?」
淡々と問いかける眞秀に、貴祥は無言のまま視線を投げかけてくる。微かな目の動きから、なんとなく様子を窺われているのがわかった。
「最近…、ちょっと変ですよね」
少ししてから返された言葉が予想外で、さすがに答えに詰まる。
“ちょっと変”が漠然としすぎていて、何に対してのものかがわからない。
店の業務についての事なのか、それとも眞秀自身についてなのか。
「オーナーとも変だし、……宗親とも」
「………」
どうやら“変”なのは、眞秀自身の事らしい。
隠し通せていると思っていたのに、そんなに態度に出ていたのか。もしくは、貴祥だから気付いたのか…。
目の前から見据えてくる瞳に居たたまれなくなって、視線を背けた。
「何があったんですか?」
「べつに、何もないですよ」
「そういう嘘はいらない」
「………」
追及の手を緩めるつもりがないらしい貴祥に、眞秀は小さく嘆息した。
なぜここまで食い下がるのか。何もないと答えているんだから、放っておいてくれればいいものを…。
「本当に何もない。……寒いのでそろそろ戻ります」
どれほど頭を冷やしたくとも、さすがにこれでは体の方が冷えすぎてしまって辛い。
よくわからない貴祥の追及からも寒さからも逃れたくなった眞秀は、寄りかかっていた手すりから背を起こそうとした。
けれど、
「…店、やめたらどうですか?」
一歩踏み込んできた貴祥の手に肩を軽く突かれ、眞秀の体はまた手すりに押し戻された。
…店をやめたらって…、貴祥はいったい何を…。
驚きに瞠目した眞秀を見下ろしてきた貴祥が、その長い両腕で囲い込むように手すりを掴み、息が触れるほど近くに顔を寄せてきた。
「見ていて危なっかしいんですよ。ここを辞めたら生活できないっていうなら、俺の家に住めばいい、眞秀さん一人くらい面倒みられますから」
「な…に言って…」
「俺以外の奴に意識をとられて悩むアンタを見ると、イライラする」
もう本当に意味がわからない。
また最初の頃のように嫌われていて暴言を吐かれているのかと思いきや、見つめてくる瞳にはとろりとした熱っぽい何かが見え隠れしていて、敵愾心のようなものはない。
言葉の内容は苛立ちを伝えてくるのに、その声は蜜を吐くように甘い。
纏わりつくおかしな空気に喉を塞がれそうになった眞秀は、無理やり息を吐き出すようにして声を押し出した。
「……イライラするなら、見なきゃいいだろ…」
目を逸らしたくとも、逸らした瞬間に何かが起きそうな気がして逸らせない。
押し出した声が震えているのは、寒さのせいであってほしい。そんな事を思う眞秀に、貴祥は小さく笑った。
「そうじゃない。眞秀さんが俺以外を見なきゃいいんですよ。欲しいものはなんでも用意する。だからずっと家にいればいい。そうすれば、アンタは誰に煩わされる事もない。悩む事もない。………俺だけが、アンタの世界にいればいい」
「……貴祥…さん?」
思いつめるような低い声に、ぞくりと背筋が冷えた。
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