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第38話

*―――*―――*―――* 今にも空から水滴がこぼれ落ちてきそうな曇天。 休み明けの月曜日から寒々しい天気は勘弁してほしい。 冷たい夜風を少しでも防ぎたくてコートのポケットに手を入れた眞秀は、出勤途中の歩道を歩きながらあまりの寒さに目を細めた。 裏起毛のスーツでも買おうかな…と思いつつ、首元のマフラーに口元を埋める。 週初めの今日はさすがにサラリーマンも飲んで帰る気にならないのか、いつもより人並みは少ない。だからこそ余計に寒さを感じる。 人が少ないからこそ視界もいい。それは、見えなくてもいいものも見えてしまうという事。 何気なく視線を向けた先の路地裏。一瞬、眞秀の足が止まった。そしてまたすぐに歩きだす。 …どうして…。 胸の奥から込み上げる苦しさに、一度だけ喘ぐように息をする。 表通りから横に入った路地裏の人影。一つは長身で、一つは小柄。両方ともスーツを着た男で、小柄な方が、長身の人物の首に抱き付いて背伸びをし、キスをしていた。 すぐに目を逸らして歩き出したものの、その光景が脳裏に焼き付いて離れない。 見間違いじゃない。 あれは、…今のは…、 …黎一と美波だった。 足早に店へ向かった眞秀は、事務室に入ると同時に後ろ手で閉めたドアへ寄りかかって俯いた。 湧き起こる感情を押し殺すように唇を噛みしめても、それでも溢れてくる痛くてドロドロした何か。 腹の中をぐるぐると回って重さを残し、頭を巡って眩暈を引き起こす。 もう認めてしまおう。 いくら自分を誤魔化したって、この感情だけはもう知らぬ振りができないところまできている。 俺は、黎一が、 ……好きだ。 心の内で初めて言葉にした事で、それが全身に染み渡る。 ずるずると背を滑らせて床に座り込むと、そのままグシャリと髪をかき乱した。 認めた時にはもう相手は他を向いているなんて、恋愛ドラマも顔負けの展開だ。 …そうなったのは自分のせいだけれど…。 頭を抱えて溜息を吐いたって、さっきの二人の現実がなくなるわけじゃない。 黎一は、フリーの時なら来る者拒まずだ。きっと美波の事を受け入れたのだろう。 「………きっついな、さすがに…」 呟いた声が微かに震える。 どうやってこの気持ちを昇華すればいいのか…。認めたばかりの想いに対して、どうすればいいのかわからない。 うなだれていた眞秀は、しばらく考えた後にゆっくり立ち上がり、乱れていた髪を手櫛で整えた。 …年が明けたら、店を辞める事も視野に入れよう。 逃げてばかりの自分は、やっぱりこんな時でもこういう選択をとろうとしてしまう。それが情けないとわかっていても、ぶつかるよりは諦める方を選ぶ。 きっとその方が楽だから。 そう考える自分に深い自己嫌悪を覚えて溜息を吐き出したところで、ようやくマフラーとコートを脱いだ。 仕事くらいは責任をもってしっかりやらなければ、それこそどうしようもない人間になってしまう。それはさすがに自分を許せなくなる。 眞秀は無理やり意識を切り替えると、いつもと変わらぬように自分の席についてパソコンの電源をたちあげた。 「お先に失礼します」 今日は残業もなく定時に上がれた。 まだ残っている実に挨拶をしてから店を出ると、出勤する際に曇天だった空からは小雨が降っている。 水分を含んで深々と冷え込む冬の夜気。白い吐息が溶け込むのを見ているだけで、首筋に冷気を感じる。 手に持っていたマフラーを慣れた仕草で手早く首に巻いて歩き出せば、絹糸のような細かな雨が頬に触れ、凍てつく寒さが身に染みる。 どこかボーッとしている今の自分には、この寒さがちょうどいい。 遅い歩みで路地裏を歩いているうちにしっとりと濡れてきた前髪を、無造作に後ろになでつけた。 頬にあたる小さな水滴を人差し指の背で拭いとり、そして溜息をひとつ。 表通りを避けて裏通りを歩きながら、いろんな事が頭に浮かんでは消えていく。 貴祥の執着、宗親としてしまった自分の弱さ、予想外の琉人の優しさ。 彼らが自分へ向けてくる思いは一体どういうもので、どうすればいいのか…。 そして、黎一の事。 好きだと認めたけれど、もう終わってしまった関係なのに…、今更好きだと自覚したって遅い。遅すぎる。 出勤途中に見てしまった美波とのキス。それを思い出してしまえばグッと胸の奥が締め付けられる。 好きという気持ちがこんなに苦しさをもたらすのなら、俺は、いらない。 こんな想いをいつまで抱き続ければいいのか。 黎一と美波の付き合いを傍観しなければならないなんて…、それならもういっそのこと、 ……消えてしまいたい。 人通りのない裏路地を歩く足が、力尽きたように止まった。 白い吐息を吐き出して仰向いた顔に、次々と水滴が降り注ぐ。その中に体温を持った雫が混ざり込んでいても、誰にも気づかれないだろう。温かな雫は冷たい雨と溶け合って、そしてただの水滴になる。 「おい、傘もささずに何してんだ」 突然腕を掴まれた。 驚きに目を瞠る眞秀の視界に映り込むのは、たった今まで脳裏に思い描いていた…。 「……レイ…イチ…?」

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