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第39話

茫然としたように凝視してくる眞秀を見下ろした黎一は、掴んだ腕がその存在をハッキリと知らしめてきた事で、内心で小さく安堵していた。 他店舗の閉店作業を見届けてから、本店に向かっている途中。 顔が広い分、道を歩けば同業者や知り合いに絡まれる。今夜はそれが煩わしくて裏通りを歩いていた。 人通りのない裏通りで、ふと視線を上げた先にいる傘もさしていない男の姿。 スラリとした体形に整った容姿。どれだけ見ても見飽きない、それどころが魅了される相手。眞秀が空を見上げて立ち尽くしていた。 傘もささず冬の雨に打たれる様があまりに儚く見えて、今にも消えてしまいそうな眞秀に溢れ出た焦燥感に、思わず足早に近づいてその腕を掴んでしまった。 驚いたように振り向いた眞秀との距離。掴んだ腕の感触。それらが黎一の血を沸騰させる。 腹の底から湧き起こる渇望と情欲と、愛しさ。 欲しくて、欲しくて、……全身で眞秀を求めるこの想い。 眞秀が望まないのなら、無理やり手に入れても仕方がないと…。そう思うのに、それなのに、目の前にしてしまえばそんな理性などすぐに吹き飛んでしまう。そうならないように、できるだけ関わらないようにしていたというのに…。 見つめてくる瞳は常よりも水分を帯びていて、その中に昏い痛みの色が見え隠れていている。 「…黎一には関係ない。放っておけよ」 昏い瞳のまま、囁くような掠れる声が……、突き放す言葉が…、理性を次々に破壊していく。 「じゃあ俺の前でそういう顔すんじゃねぇよ」 「そういう顔ってなんだよ。いいから放っておいてくれ!」 その瞬間堪えていた何かが崩壊したのを感じた。 掴んでいた腕を引っ張って、建物の陰に引きずり込む。 よろけるように体勢を崩した眞秀を壁に押し付けた。 …もう、止まらない。これ以上、眞秀の拒絶の言葉を聞きたくない。 「俺のことはどうでもいいって!そう言ったのは黎一だろ?!それなのになんで…ッ…」 投げ捨てた傘が、地面に当たって音を立てた。 眞秀は、今いったい自分に何が起きているのかわからなかった。 突然引っ張られて壁に押し付けられ、そして、唇に触れた何か。 茫然としているうちに、それは食らいつくような激しさに変わり、うっすらと開いていた隙間から熱い舌が忍び込んでくる。 …なんで…、黎一が……。 咄嗟に押しのけようとしても、鍛えている黎一に敵うわけもなく。なおさら深く口づけられる。後頭部を抑え込まれて口内の敏感な部分を舐め犯されると、反射的に体がビクリと震えてしまう。それがなおさら黎一を煽るようで、もっと深く貪られる。 静かな雨の降る路地裏に響き渡る荒い息遣いがやけに耳に入り、途端に顔がカッと熱くなった。 「…も…っやめ…ッ」 渾身の力を込めて目の前にある体を押し離したところで、ようやく黎一が顔を上げた。 濡れた唇に、冬の冷気がひやりと触れる。 もう一度触れそうになるほど近い黎一との距離に、思わず顔を背けた。 間近から見下ろしてくる鋭い眼差しが、痛くてたまらない。 …美波という恋人ができたのに、どうしてこんな事をするのか…。 この想いから逃げようと思っていたのに、そして今も黎一から逃れたいと思っていたのに、触れた唇と自分を拘束する力強い腕に鼓動が跳ね上がる。 離してほしい。 もっと求めてほしい。 相反する感情がせめぎあい、自分の気持ちがグチャグチャでわからくなる。 久し振りの近しい距離と揺れ動く心に、羞恥と動揺でいたたまれなくなった。 「なんでこんな事…。……もういいだろ、離してくれ」 「………」 顔を背けたまま再度力を込めて黎一の肩をおしやる。すると、先程までの強引さはなんだったのか…、抵抗もなくゆるりと体が解放された。 1歩足を引いて距離を開けた黎一は少しの間無言で眞秀を見つめていたが、しばらくして上半身を屈めると地面に落としたままだった傘を拾い上げ、そして傘を眞秀に押し付けてきた。 いまだ混乱して反応できずにいる眞秀に気付いたのか、黎一は傘の柄を無理やり眞秀の手に握らせる。 ハッと我に返った眞秀が逸らしていた視線を前に戻したときには、もう黎一は店へ向かって歩き出しているところだった。 角を曲がったその姿が見えなくなると同時に、たった今自分の身に起きた事が脳裏によみがえる。 コート越しに伝わってきた微かな体温。熱い吐息と、唇に触れた熱。 店を辞めて離れようと思ったのに、こんな事をされてしまえばそれも揺らいでしまう。 理性の外で、離れたくない…と、感情が騒ぎ立てる。 うずくまりそうになるのを必死にこらえ、込み上げるものを抑え込もうと固く目を閉じた。 しばらくして、渡された傘を持ち上げた際にフワリと香った黎一の香水の残り香。苦しいほど愛しく思えるその香りが胸の奥をかき乱し、おさまったはずの涙がまた滲みそうになるのを奥歯を噛みしめて必死に耐え忍んだ。

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