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第40話
*―――*―――*―――*
月曜日の出来事から二日たった水曜日。あれから黎一の姿を見ていない。
昨日店に来なかったという事は、今日は間違いなく来るだろう。
少し時間を置いた事で、ある程度冷静な状態になれた。今なら何事もなかったように事務的に対応できるはず。
胸の内でそんな事を思いつつ、カウンターに寄りかかって実に仕事の相談をしていた眞秀は、目の前でグラスを磨いている相手が意味ありげな目線を投げかけてきた事に気付いて口を噤んだ。
ある意味、この店の誰よりも実は怖い。常に冷静で頭も良く面倒見も良い。それなのに、全身から漂う得体の知れなさが妙な迫力を醸し出している。
今日はシルバーフレームの眼鏡をかけているせいで、その知的な容貌がなおさら協調され、ハッキリ言って胡散臭さが半端ない。
思わず、寄りかかっていたカウンターから腕を離した。
「……な…んですか?」
躊躇い気味に問う眞秀を一瞥した実は、磨いている手元のグラスに視線を戻したかと思えば、淡々とした口調で語り始めた。
「今日、早めに出勤したんです」
「……? ……はい」
「店の裏口の前で、面白い出来事に遭遇しました」
「面白い出来事?」
そこで一旦言葉を止めた実は、またチラリと眞秀を見やる。この後に来る話が本題だとその瞳が告げているようで…。意味が分からず小さく首を傾げた。
今度は手元のグラスに視線を向けることなく、こちらをジッと凝視してくる。
「オーナーと美波さんが…」
「………っ…」
腹の奥底でグルリとまわった重い塊に、思わず奥歯を噛みしめる。
「喧嘩をしていました」
「……………はい?」
予想とは違った内容に一瞬固まった眞秀は、実を見つめたまま二の句が告げられなくなってしまった。
何故かその反応に満足した様子の実は、先程までの無表情を僅かに緩め、またグラスを眺めつつ磨き始める。
「…と言っても喚いていたのは美波さんだけで、オーナーは冷静に突き放してましたけど」
「………」
「『店の従業員として構う事はするが、それ以上を求めるなら諦めろ。俺にその気はねぇよ』オーナーは冷めた表情でそう言ってましたよ。…あの人の冷めた表情は本当に温度下がりますからね。美波さんもご愁傷様です」
……なんでそんな話をわざわざ俺にしてくるのか…。実は噂話好きでもなければ、無駄口を叩く方でもない。それなのに……
鋭い実は、何かに気付いていそうで怖い。…いや、これは確実に気付いているだろう。
無意識に溜息を吐き出した眞秀だが、胸の奥のモヤモヤしたものが少しだけ消えた事に気付くと、途端に狼狽えた。…そんな自分がどこか醜く感じて…。
「…眞秀さん、ちょっといいか?」
眉を顰めていた眞秀は、深みのある低い声にハッと我に返った。いつの間にか、すぐ後ろに宗親が立っている。
挨拶は交わしても、こうやってまともに向かい合うのは2週間と少し振り。眞秀はともかく、No2の宗親はなかなか多忙なだけに随分と久し振りに感じる。
表面には出さないまでも今度は別の意味で狼狽えた眞秀は、ぎこちなく頷いた。
どこに連れていかれるのかと思ったら、いつもの眞秀の居場所である事務室だった。
既に開店しているというのにこんな所にいて大丈夫なのかと問えば、少し席を外すと言ってあるから気にするなと返ってきた。という事は、長居をするつもりはないのだろう。
ドアを入ってすぐのところで立ち止まり、宗親を見上げる。相変わらずの迫力ある男前ぶりには、同性としての嫉妬心さえ起こらない。もはや目の保養だ。
「…それで、どうしたんですか?」
こちらを見下ろす眼差しにどこか思慮深いものが見え隠れしている事に気付いた眞秀は、体に帯びていた僅かな緊張を解いた。今日の宗親は、とりあえず“獰猛な方”ではないようだ。
「さっきの店長の話、耳に入ってきたんだが…、俺が必要か?」
実との話に集中しすぎたせいで気付かなかったけれど、どうやら宗親は近くにいたらしい。通り過ぎた際に聞こえてしまったのだろう。
それは、黎一と美波の事で悩む眞秀を見越しての言葉。
“甘やかしが必要か?”“寄りかかる腕が必要か?”
宗親が問うのは、きっとそういう意味。
本当にどこまで甘やかすつもりなのか、この男は…。
「……いえ、大丈夫です」
小さく横に首を振った眞秀を見下ろしていた宗親は、暫くした後に嘆息した。それはどことなく面白くなさそうでいて、優しさの混じったものだった。
「アンタは何故そうも人に寄りかかろうとしないんだろうな」
「俺も男なので、頼るよりは頼られたいですね。…あとは…、性分もあるのかな」
精悍な顔つきが不服そうに見える。それを見た途端、この男が年下だったのだと思い出し、なんとなく可愛く見えるのだから面白い。
思わずフッと笑った眞秀だったが、次の瞬間その顔を強張らせた。
左頬を覆う大きな手の平。突然のことに肩を揺らして身動ぎすると、宗親が小さく笑いをこぼす。
僅かに見開いた瞳で見つめる先の宗親の顔には、少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「……俺はアンタに頼られたい。前にそう言っただろう?」
鼻先にふわりと届く宗親の香り。そして耳朶に触れる低い声。
いきなり濃密になった空気に固まる眞秀は、右耳のすぐ下に柔らかく濡れた何かを感じて反射的に目の前の体を押し離した。
「…ッ…何をっ!」
身を起こした宗親は、見せつけるようにいやらしく己の唇を舌で舐める。
「どんな事でもいい、いつでも呼べ。アンタの願いなら大抵の事は叶えてやる」
「ご心配なく。絶対に呼びませんっ」
唇を押し当てられた首筋を手で覆って睨む眞秀を見た宗親は、楽しそうに喉奥で笑うとしなやかな身のこなしで事務室を出て行ってしまった。
残されたのは、目元を赤くした眞秀ひとり。
深い溜息を吐き出そうとしたところで、この僅かな時間だけでも黎一と美波の事が頭から吹き飛んでいたことに気がつき、ふわりと口元を緩ませた。
そして、店内へ戻ってきた宗親の姿を、感情の無い貴祥の瞳が見つめていた。
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