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第41話

*―――*―――*―――* 12月の第二週目の金曜日。今日がボーナス支給日という企業は多く、週末という事も相まって客数が多い。捌ききれないほど多い。 プレイヤーにとっては嬉しい悲鳴だろうけど、裏方では本当の意味での悲鳴が上がる。 先ほど調理場を覗いたら、主任のさっちゃんは鬼の形相でフルーツを切りまくり、補助のいーちゃんは泣きが入っていた。ご愁傷さま。 眞秀があまりにもヘルプに出る事に難色を示していたせいで、ここ最近ヘルプに使える新人ホストを多く採用してくれた実には感謝しかない。おかげで、混んでいても眞秀にくるのはウェイター依頼だけ。 第一陣の混雑が収まり、ある程度の注文が落ち着いたところでトイレに足を向けた眞秀は、鏡に映る自分の姿をチェックして身嗜みを整えた。 『明日は間違いなくラストまでウェイターをお願いする事になると思います』 昨日の帰り際に実からそう言われていた眞秀は、今日は髪をきちんとセットして出勤してきていた。 いつもは適当に横に流している前髪を軽く後ろになでつけ、額を全面に出す。そうすると、大人びた上品な端正さが際立つ。 開店直後に店の中ですれ違った蓮司が人の顔を見て、『…っ…鼻血』と鼻と口元を手で押さえてどこかへ走り去っていったのは未だに納得がいかない。鼻血ってなんだ…。 洗った手を拭いてから一息ついて、さぁ店内へ戻ろう…とドアへ向ける。だが、そこに辿り着く前にドアがゆっくりと開かれた。 立ち止まる眞秀の前で、開いたドアが静かに閉じる。そしてカチリと響く施錠の音。 「………貴祥さん…?」 入ってきたのは、次から次へと指名が入っていて忙しいだろう貴祥だった。 後ろ手に鍵を閉めたのは何故か。聞きたくても聞けない空気。 眞秀を見る眼差しに僅かな苛立ちの感情を読み取って、思わず息を詰めた。 「これで誰も入ってこれませんね」 「…なんで…」 「眞秀さんと話をするのに、他人に邪魔されたくないからですよ。今月は同伴やアフターが多すぎて、こうでもしないと二人きりで話せませんから」 出会った頃よりも少し伸びた金色の前髪の間から、鋭い眼差しが見え隠れする。 その瞳に意識を取られていると、不意に伸びてきた手に左手首を掴まれて力任せに引っ張られた。 体ごとぶつかる寸前で、右手を貴祥の胸元に着いてなんとか堪える。 「この前、宗親と何をしていたんですか?」 「……え?」 見上げた目線の先に映る貴祥の顔は、まるで能面のように無表情で…。離れようとしていた眞秀の動きを止めるには十分な不機嫌さを伝えてきた。 ふわりと香る甘い匂いが、貴祥のパーソナルスペースに入り込んだ眞秀を包み込む。その濃密な空気に息が詰まりそうになり、喘ぐように息を吐き出した。 「…な…んの事ですか」 「へぇ…? …隠されると無理やりにでも聞き出したくなりますね」 「………」 隠そうとしてるわけじゃない。けれど、貴祥に話して楽しい内容でもない 一昨日の宗親との事を説明するには、その前の黎一と美波の事も話さなければ通じない。機微に敏い宗親にはダダ漏れで心の揺らぎを読み取られているが、貴祥がどこまで眞秀の気持ちに気付いているのかはわからない。 眞秀を好きだと言う貴祥。そんな相手にどう話せと? 自然と落ちた視線の先で、貴祥の靴先がジリっと動いた。それと同時に、手首をつかむ力が僅かに増す。 「…構おうとすれば逃げるし、構わなければ離れていく…。放っておけば俺以外の男と密室に閉じこもるし隠し事もする。…いったい俺はどうすればいいんですか」 俯き気味の貴祥の唇が耳元に近づき、憂苦の色を滲ませる声が落ちてきた。 「アンタがもっと打算にまみれたイヤな人間だったら、俺がこんなに苦しむ事はなかった」 「……貴祥さんが思う程、俺は清廉な人間じゃない。利己主義で我が儘で、…弱い」 「………うそつき」 囁きと共に、耳の上部に濡れた感触。首筋がぞくりと粟立ち、咄嗟に貴祥を押し離そうとした。けれど、強く握られた手首は解放されず、それどころかもう片方の手が腰に回されてなおさら強く引き寄せられる。 密着する体と、足の間に差し込まれた貴祥の左足。ジャケットとワイシャツを通してさえも伝わるしなやかな筋肉の存在を感じて、羞恥に頬がジワリと熱くなった。 「…っ…貴祥さん、離して下さい!」 離れようとしても、僅かな身動ぎさえも封じ込められる。 焦燥にかられる眞秀の耳に、ぽつんとその呟きは落とされた。 「………人を好きになったのなんて…、初めてなんです…」 僅かに震えた声。囁くような掠れた声。 仮面を取り外した貴祥の声だとわかった眞秀は、離れようとしていた動きを止めた。 「俺の事苦手なくせになんだかんだと面倒を見て、それなのに見返りを求める事もしない。媚びる事もしなければ、蹴落とそうともしない」 「………」 「…こんな人もいるのかと驚きました…。行動に損得がない眞秀さんが好きです。これが…俺の初恋なんですよ」 そこで貴祥が小さく笑った。それはどこか気恥ずかしそうでいて、そして嬉しそうでもあった。誰かに恋をしたことが嬉しくてたまらないのだと…、伝わってくる。 けれど、だからと言ってそれを受け入れられるわけじゃない。貴祥の事を恋愛対象としては見られない。 中途半端な態度は、いずれ貴祥を傷つける。相手の事を思えばこそ、拒絶が優しさとなる。 眞秀は俯き気味だった顔を上げて、貴祥の瞳を見つめた。 「初恋は実らないって、知ってますか?」 「…そんなの、知りません」 「俺は貴祥さんとどうこうなろうとは思わない」 「俺は諦めません、そんな言葉は聞きたくない」 「聞きたくなくても、それでも俺は言います。貴方とは付き合えない」 「いやです…。なんで?どうして?」 途方に暮れた子供のように必死で泣きそうな声。 縋るように眞秀を抱きしめる腕が、貴祥の気持ちをより一層伝えてくる。 “俺を好きになって下さい”と。切ないほどに訴えてくる 自分だって現在進行形で黎一に対して苦しい思いをしている。だからこそ、貴祥の胸の内がよくわかる。 ここまで好きになってくれた事は、戸惑うけれど嬉しく思う。そして、どうにもならない苦しさを与えているのが自分だと思うと、なんとかしたいとも思う。 けれど、同情で受け入れるのか?と問えば、それは違うと答えは出ている。 全ての人の想いが報われるわけじゃない。 …俺も…貴祥さんも…。 抱える想いと、向けられる想い。雁字搦めにされて、身動きが取れなくなる。 でも…。 「貴祥さん」 「イヤです」 「貴祥さんの想いを俺がどうこうする事はできません。だから、今すぐ諦めろと言うつもりもありません」 「………」 「でも、貴祥さんを恋愛対象としては見れないという俺の気持ちも、変える事はできません」 身動ぎした貴祥が、眉を寄せて奥歯を噛みしめたのがわかった。眞秀を抱き締める腕の力が僅かに弱まる。 とても残酷な事を告げている自覚はある。でも、嘘をつくよりマシだ。迷っているならまだしも、もう自分の気持ちが誰に向かっているのかがわかった今、真摯に想いを告げてきた相手にあやふやな態度はとれない。とってはいけない。 「ありがとうございます。でも、すみません」 「………ッ」 押し殺す息遣いが貴祥の唇からこぼれ落ちる。そして、するりと離れた手が眞秀を解放した。 貴祥の顔からは表情が消え失せ、無表情という仮面が張り付けられる。 あからさまな拒絶は、…わかっていたけれどそれでも……、痛い…。 衝動的に手を伸ばしそうになった自分を、か細い理性がなんとか押し留める。いま手を差し伸べてはいけない。 嫌いではない相手を拒絶する事がこうも苦しいだなんて…。つくづく恋愛とは厄介なものだと思う。 どうすればいいのだろう…。苦しませたいわけじゃないのに、何をどうしても、結局最終的に傷つけてしまう。 「…貴祥さん」 言葉を探しあぐねて名を呼んだその時、後頭部にまわされた手に力強く押さえつけられ、驚きに声を上げようとした唇が強引に塞がれた。 「………ン…ッ」 慌てて貴祥の体を押しのけようとしたが、それよりも先に貴祥の方が離れていく。わずか数秒の奪うような口付け。 貴祥がどんな想いでそうしたのかなんてわからない。わからないけど、踵を返してトイレを出て行ってしまった貴祥の後姿を茫然と見送った眞秀の心には、言葉にできない複雑な寂寥感だけが残された。

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