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interlude

Lumiereの開店間際。いきなり事務室のドアが開いたかと思えば、突撃してきたのは相も変わらずこの人物だった。 「眞秀さあぁぁぁんっ!」 「…今日は何、蓮司」 温厚そうな甘いイケメン顔を情けなくも崩して泣きついてきたのは、最近かなりの勢いで順位を上げてきている蓮司だった。 本当にこんなんでよくホスト業が務まるな…と感心半分・心配半分で迎え入れた眞秀だったが、次に放たれた言葉に思わず動きを止めてしまった。 「カウンターに突撃したら店長押し倒してタンブラー何個も割っちゃいましたあぁぁぁぁぁぁ!」 「………」 いや…どうしたらそんな事になるんだ…。 状況を想像するだけで眩暈がしそう。 結果、どうやら予備用のタンブラーを取りに来たらしい。 何個割ったのか知らないが、昨日納入してもらったばかりだから数は足りるだろう。 そもそも何故カウンターに突撃したのか…。 あの無敵鉄仮面の実さんは、押し倒された時でもやっぱり無表情なんだろうか。そんなどうでもいい事が妙に気にかかる。 この様子なら双方共に怪我はしてない…か。 密かに安堵の溜息を吐いた眞秀は、椅子から立ち上がって事務室を出ると、情けない顔で縋るように自分を見つめてくる蓮司を人差し指でチョイチョイと呼び寄せる。 そして、事務室の斜め前にある備品室へ向かい、蓮司を伴って入った。 ドア横のスイッチを押して電気を灯し、壁際に並ぶ棚の一か所を指し示す。そこにタンブラーの予備品が収められている。 「タンブラーはそこの棚。どれだけ割ったか知らないけど、さすがに足りるだろ」 「はいっ!余裕です!」 さっきまでの情けない表情から一転。たくさん並ぶ予備品に目を輝かせる蓮司。 助かったとでも思っているのだろうか。割った分を給料から差し引かれるなんて事は全く頭にないらしい。 …まぁ稼いでるからいいか。 売り上げ計算をしている眞秀には、プレイヤー達の給料はほとんど筒抜けだ。 指折りで必要個数を数えている蓮司の隣に立ち、タンブラー以外にも追加注文する品はないかと他の備品をチェックする。 不測の事態に備えて、割れ物や壊れ物は多めに用意しておいた方がいいかもしれない。 勿論の事、その“不測の事態”を引き起こすような人間は、隣にいるこの男しかいないのだが…。 じわじわと込み上げる苦笑いを噛み殺しながら、誰が荒らしたのか…乱雑に崩れているおしぼりの積み重なりを整える為に手を伸ばす。 「ッぅわっ!」 「?」 突然横から聞こえた焦燥の声。何事かと振り向いた眞秀の体は、一瞬の間で平衡感覚を失った。 「くッ…」 背中を強打した衝撃と、上から圧し掛かる重み。 詰まった息を吐き出した途端、どこともいえず全身が鈍い痛みが訴えてくる。 何が起きたのかわからないまま、いつの間にか閉じていた瞼をゆっくり押し開いた。 それと同時に、上から圧し掛かっていた重みが少しだけ軽くなる。 眞秀の顔の横に手をついて、少しだけ身を浮かした蓮司の様子が視界に映った。 だが、起き上がろうとした途中で、眞秀が己の下にいると気づいたのか…まるで石化したように動きを止める。 間近で絡まる瞳は、毎日のように見ているもののこんな距離で合わせる事はまずなくて…。あまりの近さに眞秀は思わず目を見開いた。 そして、そんな眞秀を見つめたまま固まる蓮司。 「…蓮司?」 名を呼ぶ声が僅かに掠れてしまったのは、動揺のせいか。 どうしてそうなったのかわからないが、体勢を崩した蓮司に巻き込まれて一緒に倒れてしまったらしい。背中への衝撃は床。上からの重みは蓮司。間に挟まれて、どうりで苦しかったわけだ。 咄嗟に頭を浮かせたから後頭部は打っていないが、肩甲骨や腰などは後で青痣が出来ていそう。 黎一にばれたら面倒な事になりそうで、思わず溜息が零れ落ちた。 ゆるりと吐き出した吐息につられるように、蓮司の手が頬に伸びてくる。 僅かに下がっていた視線を上げて蓮司を見ると、何故かその顔にはいつになく甘い色が乗っていた。 「…蓮…司?」 え…、なに…? さすがに戸惑う。 まるで、誰かをタラシこむような蜜を溶かし込んだ柔らかな表情。 …そう…、たぶんそれは、眞秀が初めて目にする、蓮司のホストとしての顔、だ…。 「…すみません。怪我、してませんか?」 「あ…ぁ、大丈夫」 「眞秀さんに怪我なんてさせたら、俺、一生自分を許せなくなります」 砂糖菓子のような甘ったるい声。 愛しい者でも見るような陶然とした瞳に魅入られて目を離せなくなった眞秀だが、蓮司が身を屈めて距離を縮めた事に気付いて慌てて胸元に手を置き、それ以上近づくのを止めようとした。 だが、逆にその手を掴まれ、蓮司の口元に持っていかれたかと思えば、手首にそっと唇を押し当てられる。 思わず背筋を震わせた眞秀の様子を嬉しそうに見つめた蓮司は、 「…眞秀さん、キスしていいですか?」 そんなとんでもない事を口走ってきた。 仰向けに倒れている自分に、体を重ねるようにして覆いかぶさる蓮司。 いつもなら、こんな状況でも何も思う事はなかっただろう。 だが、今の蓮司は危険だ。ワザとなのか無意識なのかはわからないが、淫靡な空気を纏わりつかせている。 「…ッ…だめに決まってるだろっ」 「だめって言われると余計したくなっちゃいます」 可愛い弟だと思っていた蓮司を、冷たく無下に拒絶する事ができない。本気で振り払ったら、物凄く傷ついた顔をして泣いてしまいそうで…。 対処の仕方に悩む間にも、徐々に近づいてくる距離に息を詰める。 それでも、 …あぁ…、これは人気が出るわけだ…。 妙に冷静になっているもう一人の自分が、そんな風に納得していたりもして…。 もう少しで唇が触れてしまうところまで近づいた時。 「…ぅッ」 いきなり蓮司の体が崩れ落ちてきた。 全体重が圧し掛かり、唇から呻き声がこぼれ落ちる。 「蓮…司っ、重い!」 抗議するように軽く肩を叩く眞秀の耳朶に、蓮司の吐息がぶつかる。一瞬ぞわりと肌が粟立ったが…。 「…蓮司?」 触れる息のあまりの熱さに、ハッと目を見開いた。 なんとか体をずらし、急いで額に手を当ててみると物凄く熱い。 そういえば、圧し掛かる体も熱い気がする。 …ようやく納得できた。 だからカウンターに突撃する奇行っぷりを発揮したのか…。 いつも突撃してくるからどこでもやってるのかと思ったけど…、さすがに違ったらしい。 おまけに、さっきまでのホストモードは、熱で理性が崩れていたからか…。 全てが理解できて、思わず全身から力が抜けた。 …今度からは蓮司の体調管理も気にしてやらないとな…。 ぐったりとした蓮司の体を上からどかし、一息ついた眞秀は、誰かの手を借りようと早々に店の方へ足を向けた。

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