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第9話
既にいい匂いの充満した部屋で、真郷は自身の腹がぎゅると鳴るのを聞いた。
カレーの匂いはいつでも空腹を誘ってくる。
もう少しかな、と皿の準備をしようと立ち上がったところで真郷のスマートフォンが鳴る。
画面には、母の文字。
「……はい」
『ごめんなさいね、急に連絡して。あの……郷留さんが、真郷さんに会いたいって』
「兄が? どういう用件ですか」
真郷は通話をしながらリビングを出て、ドアの前で壁にもたれる。
『郷留さん、再来月結婚することになったの。それを機に会社を継ぐから……真郷さんと一緒に仕事がしたい、って言っていて。食事でもしながら、その話がしたいみたいで』
「……すみません、その話はお母さんから断っていただいてもいいですか」
『……そうよね。ごめんなさいね、私も勝手には止められなくて』
言っておくわね、と申し訳なさそうに言う母に、深く頭を下げる。
見えないと分かっているが、言葉にはしない。
「その他に、何か話は?」
『いえ、いいわ……それじゃあ』
「琳太朗は……琳太朗は、元気ですから。不自由なことは多いけど、笑顔も増えました」
切ろうとした母を引き止めるように、真郷は声を張って告げる。
そう、とただ一言震える声で返す母に、真郷は辛そうに笑った。
『琳太朗を、よろしくお願いします』
母はそう言って、通話を切った。
真郷はスマートフォンを握りしめ、額に当てる。
母が悪くないことは、分かっている。
それでも、許すことは出来ない。
割り切れない思いを抱き、真郷は小さく謝罪をした。
ふー、と深く息をついた後、切り替えてリビングに戻る。
「あ、真郷戻ってきた。なぁに、電話?」
瀧川が皿にカレーを盛りつけている間、先に席についていた琳太朗。
近づいた真郷がスマートフォンを持っていたことに気付き、何気なく聞いてくる。
「あぁ。仕事場から電話あってさ」
聞かれていないのをいいことに、真郷は嘘をつく。
それでも、心が痛まないわけではなかった。
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