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第2話
……数年前、僕はSMプレイのバイトをしていた。「ご主人様」側として。ここにいる彼は、Mの側として僕と出会った。
公式には無職。実質としては、裏稼業の下っ端の手伝い……というのが、彼の社会的な位置だった。
「音声を切ってくれ。まわりに聞こえたら、どうする」
焦り気味に言えば、彼は「はいはい」とスマートフォンをなめらかに操作する。音は消えた。動画だけが、進んでいく。
「先生、こんなに愉しそうなのに。本当にS閉業なの?」
「……僕は、やってはならないことを犯した。もう、戻ることはない」
靴先を動かした僕の背に、軽い声。
「ご帰宅?」
「そうだよ」
「まだしゃべり足りないのに」
「……なら、僕の家に来る?」
軽やかに僕も言ってやる。
「お誘い? ……本気にしてもいい?」
「すればいい。明日は休みだから、時間はある」
幻覚に多少つきあうだけの時間はある。
……本来なら彼に与えられるはずだった時間のことを思えば、足りなすぎるほどだけど。
*
「お医者さんならもっと広い家かと思った」
彼をあげたのは、マンションの一室である。
「期待はずれか? 単身で広すぎるところを借りると、管理も面倒だし、泥棒に注目される危険も増える」
「先生、現実的。貯金たまってもそうするつもり?」
「ひっそり暮らすのが僕の望みだ」
「奴隷は何人飼うの?」
「ゼロだ。戻らないって言っただろう」
「へえ。じゃ、もしかして俺、先生の最後の奴隷?」
立ったまま、僕と彼の目があった。苦い声が漏れた。
「そうだ」
「なら、あ、ちょっとうれしいかも。ね?」
尾瀬で水遊びする子供のようにはしゃぐ声。
「僕はうれしくない。――なぁ、僕を咎めにきたなら、こんな茶番は要らない。早く糾弾してくれ。弾劾してくれ」
「それじゃ、主人と奴隷、逆じゃん」
きょとんと首が傾げられる。無垢すぎる素振りで、痛い。僕は最低の妄想をしているようだ。
「僕はもう君のご主人様じゃない。君も――君も、そうだ」
拳を握って俯くと、いきなり、両肩にあたたかい感触がきた。
「だったら、俺からこうしてもいい?」
「え……?」
温もりが背中にまわる。抱きしめられているのだと気づいたのと、唇が覆われているのに気づいたのと、どちらが早かったか。
静寂が多分十秒くらいあった。
「先生、好き」
それを破ったのは、彼の声。
「なにを、言っているんだ、君は」
僕は後ろに下がろうとした。でも、身体をがっちり囲む彼の腕が、そうはさせない。幻覚にしてはリアルすぎる熱さと圧迫感を伴って。
「僕は、君を殺したんだぞ」
「うん。覚えてる」
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