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Prologue 五月晴れ2

 封筒の表には、達筆な字で自分の名前が書かれている。  美しい書体だが、彼の筆跡だとわかる文字の()に自然と口元が緩む。  何よりもほのかに香る、甘いバニラに似たオメガのフェロモン――ヘリオトロープの花の匂いが、何十年も前にあった過去の出来事を、きのうのことのように思い出させる。  まだ世の中の常識や体裁を考えずに済み、何のしがらみもなかった頃、蚯蚓(みみず)がのたくったような字で書いた誕生日カードを手渡した。ひらがなを覚えてからは年賀状を送り合い、学校へ通い始めてからは授業中に先生の目を盗んで、こっそりメモのやりとりをした。 『さくちゃん――……』  耳慣れた落ち着きのあるテノールボイス。かつて愛した人の声に反応した朔夜は、弾かれるように顔を上げる。 「日向(ひなた)……っ!」  室内を見回すが、思い人の姿はどこにもない。  いや、いるわけがないのだ。  これから先、何があっても日向と朔夜が会うことは、二度とないのだから。  自嘲気味な笑みを浮かべ、「なんだ空耳か」と朔夜は、ひとりごとを口にした。  手紙を手にしたままベッドから降りる。豪華な部屋には不釣り合いな、安っぽい水色のサンダルを履き、障子二枚分はありそうな大きな窓の前に立つ。  ガラス一枚で隔てられた世界。そこには、雲ひとつない空が地平線の彼方まで広がっていた。  じかにその光景を目にしたいと思って朔夜は、部屋を出た。  あえてエレベーターを使わずに階段を昇り、屋上庭園へと向かう。  ドアノブを回し、ドアを押し開けるとそよ風がふわりと吹き込み、頬や髪を優しく()でた。瑞々しい新緑や、温かな土の香りが初夏の訪れを告げる。  新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込み、胸を大きく反らして深呼吸をした。  そうして朔夜は、慎重な手付きで封を切り、中から一枚の手紙を取り出した。

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