6 / 159

第1章 ある男の意見4

 俺が生まれてから両親は、何度も引っ越しを繰り返していた。その関係で転職をすることも多く、なかなか長期休暇を取れずにいた。そういうわけで俺は、家族四人(そろ)ってどこかへ外泊込みで出掛けることを、一度も経験したことがなかったのだ。  この町に来てからは、引っ越しをする必要もなくなり、両親の仕事も安定し、軌道に乗り始めていた。  両親も、兄も、もちろん俺も夢の国へ行くのを楽しみにしていたのだ。  しかし当日の朝、出発の時刻になっても、兄は起きてこなかった。  布団の中の住人となった彼の顔色は紙のように白く、全身に汗をぐっしょりかいていた。激しく()き込み、ぜいぜい、ひゅうひゅうと(ぜん)(めい)し、胸を上下させる姿は、いかにも苦しそうだ。  両親は朝から、バタバタしていた。母はあちこちに電話をかけ、父は兄の体温を測ったり、氷枕を準備したりと大忙しだった。  なんだか嫌な予感がすると思っていれば予感的中。  夢の国へ行くのは(きゅう)(きょ)中止となり、休日診療を行っている病院へ兄を連れていくことになった。  俺は夢の国へ行けなくなったことを怒り、駄駄をこねた。床へ寝転がって手足をジタバタせていると父にこっぴどく叱られ、家で留守番をしているように言いつけられる。  母は兄の心配ばかりして、「朔夜、お願いだから()(まま)を言わないで。すぐにおばあちゃんが来て、面倒を見てくれるから。家でいい子にしててね」と口早に言うばかり。  外まで彼らを追いかけていくと父から「おまえのように聞き分けのない奴は来なくていい!」と怒声を浴びさせられる。  父が本気で怒った姿を見たことがなかった俺は、驚きのあまり、アスファルトの地面へ尻餅をつき、ますます泣いた。  父は、すまなそうな顔をして狼狽(うろた)えていたが、母の「早く車を出して!」とヒステリックな叫び声を耳にして、車の中にいる兄のほうへ意識が向かう。 「ごめんな、朔夜。急がないとお兄ちゃんが危ないんだ。お父さんを困らせないでくれ。なっ、わかってくれよ」  そう言い残して父は、白い軽自動車――全体的に凹凸があるオートマチックの中古車――の運転席へと乗り込んだ。 「待って、俺も連れていってよ!」  子供の叫び声はエンジン音で()き消され、車はあっという間に遠ざかり、見えなくなってしまう。自分だけ取り残された現実を受け入れられなくて、駐車場の地面に(うずくま)って大泣きした。  五分も経たないうちに泣きやむと約束を破り、当日になって具合の悪くなった兄や、両親の態度に腹が立ってきた。むしゃくしゃした俺は、祖母が来るのも待たずにポストの合鍵を使って家を飛び出した。三輪車を()いで友達の家へ遊びに行ったんだ。    *  友達の家は、どこも留守だった。

ともだちにシェアしよう!