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第3章 桃1

   *  一年前の夏、叢雲家で事件があった。  始まりは、朔夜の父・(こう)(すけ)のもとにお中元が届いたことだ。  耕助の友人は山梨で桃農家をしていた。  長方形の白い箱。その中には傷ひとつない色艶のいい桃が八個きっちりと並んでいた。  しかし、朔夜の母親である()(ゆみ)は桃を駄目にしてしまった。  まずはご先祖様にあげようと仏壇に桃を供えた。すぐに冷蔵庫に入れるなり、食べるなりすればよかったのだが、彼女はすっかり桃の存在を忘れてしまったのである。扇風機もかかってていない部屋に五日も置きっ放しにした結果、桃に白かびが生えてしまった。そうして泣く泣く、ごみ箱へ捨てるはめになったのだ。幸いなことにかびの生えていない桃がひとつだけ手元に残った。桃は冷蔵庫の野菜室へ入れられた。  真弓は冷蔵庫から、ひんやりとした桃を取り出した。包丁で皮をむく。淡い黄色をした肌に、ほんのり紅を差したような桃の果肉を白いプレート皿の上へ盛る。食後のデザートができあがった。  包丁やまな板をシンクで洗い、リビングのほうへ目をやる。真弓は、床に寝転んでアニメを見ている息子へ声を掛けた。 「朔夜ー、取り皿とフォークの準備をして」 「無理。今忙しいから、母ちゃんが自分でやって」  テレビに釘づけとなっている朔夜の笑い声があがる。  真弓は手早く泡まみれになった手を流水で洗い流した。生ぬるい水で濡れた手をタオルで拭き、足早にリビングへ向かう。テーブルの上にあるリモコンを手に取り、テレビの電源を切ってしまう。  画面が真っ暗になると朔夜は残念そうな声を出し、勢いよく立ち上がった。なんの予告もなくテレビを消した母親へ抗議する。 「何するんだよ!? 今、すっげえいいところだったのに!」 「テレビに夢中になって、お母さんの言うことを聞かないからでしょ!? 今すぐお手伝いをしなさい!」 「げえっ、またかよ」  幼稚園が夏休みになってからトイレ掃除や洗濯物の取り込み、食器の後片付けなどを手伝わされてきた朔夜は不愉快極まりないという表情を浮かべた。 「少しは『お母さん、忙しそうだな。僕も何かお手伝いしよう』って気に、ならない訳?」 「なんだよ、日向のものまねか? ぜんぜん似てねえな、(れい)点!」 「何よ、べつに日向くんのことだなんて一言も言ってないでしょ!?」  真弓は急に顔を赤くすると、べらべら喋り始める。 「そりゃあ日向くんは、お人形さんみたいにかわくて、物静かで、おとなしくて、素直で、親の言うことを聞くいい子よ。だからって()()()のことをうらやましいだなんて、これっぽっちも思ってないんだから!」  怪訝な顔をして朔夜は母親のことを、じーっと見つめた。  この人、ほんとにあの親子のことが好きだよな。俺も好きだけどさ。  日向が人形みたいにかわいくて、おばさんの言うことを素直に聞くのはわかるけど、あいつは物静かでもなければ、おとなしくもねえぞと内心でツッコミを入れる。  真弓は、壁掛け時計へと目をやった。そろそろ今夜のメイン料理であるカレーを温め直そうとキッチンへ向かう。  まるでカルガモのひなのように、朔夜は真弓の後をついていく。 「なあ、なんで兄ちゃんは夜まで外をほっつき歩いても怒られねえんだよ? 夏休みになってから、ずっとぶらぶらしてんじゃん。兄ちゃんだけ手伝いをしなくていいなんて、ずりいよ。こんなのフコーヘーだ!」 「あんたねえ……(とう)()は、夏休みの宿題をやってんのよ。学校の友だちと自由研究をしているの。第一あの子は、学校があるときも私のお手伝いしてくれているもの。わかるでしょ?」  不服そうな顔をして朔夜は唇を(とが)らせた。 「あんたも小学生になれば、夏休みの宿題をいやでもやることになるわよ。一、二年生は『お父さん・お母さんのお手伝い』をやって、毎日絵日記に書かなきゃいけないんだから」 「ふーん……小学生っつーのも大変なんだな」  朔夜がぼやいていると玄関のドアが開く音がする。 「ただいま」と燈夜の声がする。  朔夜は真弓のもとを離れ、ダッシュで玄関へ向かう。 「兄ちゃん、おっかえりー!」  肌をこんがりと小麦色に焦がし、汗だく状態。上がり(まち)に腰掛け、靴を脱いでいる燈夜めがけて朔夜が飛びつく。 「おい、危ないだろ。朔夜」  燈夜は飛びついてきた朔夜の身体を抱きとめ、引き離す。 「だって兄ちゃん、帰ってくるの遅いんだもん! おかげで俺、超腹ぺこだぜ。待ちくたびれちゃったよ」 「それは悪かったな。今夜はカレーか?」  靴を脱ぎ終えると燈夜は家へ上がり、鼻をひくつかせた。 「そうだぞ。今日は、父ちゃんの大好物のオムレツカレーとシーザーサラダ。デザートは桃だって」 「そっか、父さんは?」 「風呂に入ってるぞ」 「じゃあ、まだ俺は入れないか。父さん、長風呂だもんな」  ため息をついている燈夜の手を取り、朔夜は「自由研究はどう? 泥だらけになってまで何を調べてるの?」と訊く。 「ああ、町に昔からある湖とか沼や川をみんなで見に行っているんだ。晴れの日や曇りの日、雨の日によって水がどう変わるのか、水中に住んでいる生き物たちに変化はないかを調べている。順調に進んでいるよ」

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