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第3章 桃4*

 黒い触手は朔夜の抵抗をものともせず、懐中電灯を奪い、投げ捨てる。懐中電灯がガシャンと音を立てて壊れる。ふっと明かりが消えて辺りは暗闇に包まれる。  触手が、朔夜の両手首と両足首、胴回りと首に巻きついた。ふわりとジェットコースターに乗ったときのような浮遊感を朔夜は味わった。実際、彼の身体は浮いていたのだ。  黒い触手は軽々と幼児の身体を宙に浮かせ、すばやく風呂の中へ引き込んだ。  ――風呂の湯は、なぜか氷水のように冷たく、ヘドロのようにドロドロとしていた。腐敗臭のする汚水が朔夜の鼻や口の中へ入ってくる。朔夜は、なんとか浴槽の縁を摑み、顔を水面に出して酸素を求めた。  黒いのっぺらぼうは窓をつめで引っかくような不快な音を発し、朔夜の顔めがけて覆いかぶさった。触手は、さらに強い力で朔夜の身体を締めあげ、湯の中へ引っ張る。  そうして朔夜は完全に黒い湯の中へ引きずり込まれてしまった。  黒い湯の中は、風呂の中とは思えないほどに深かかった。  まるでプールや海の中にでもいるような錯覚を覚えながら朔夜は、手足をばたつかせて、もがいていた。どうにかして触手と黒いのっぺらぼうを引き剥がそうと試みていた。  黒いのっぺらぼうは触手を操り、朔夜の身体をきつく抱きしめた。骨が軋むほどの力で拘束され、朔夜は抵抗ができなくなる。       ……――ミ ツ ケ タ  、 ミツケ タ    ウ ツワ   ウツ ワ 、  アタラシイ オレ ノ カラダ。  とうとう息が続かなくなった朔夜は、口から体内に残っていた酸素をごぼりと吐き出し、意識を失った。  はっと意識を取り戻すと、朔夜はリビングのテーブルに頬をついた状態で椅子に座っていた。  飛び起きて暗闇の中で目を凝らす。黒いのっぺらぼうの姿を探すが見当たらない。  パジャマはどこも濡れていない。骨が軋むほど強く締めあげられたのに手首には痣ができてない。風呂場で投げ捨てられ、壊れてしまったはずの懐中電灯が、傷ひとつない状態で壁に掛かっている。  ……夢を見ていたのか? やけにリアルだったな。  朔夜の心臓はドクンドクンと激しく鼓動を打っていた。  テーブル上の照明をつけようと蛍光灯の紐を引く。明かりがつかない。  すると先ほどのおぞましい出来事がフラッシュバックして朔夜は身を震わせた。  懐中電灯を持ってブレーカーを上げに行こう! なんて気には、さらさらなれなかった。  突然ひとりでにテレビがつき、砂嵐が起こる。  耳障りな音がいやで朔夜は両の耳に手を当てた。 「うっせえな! なんだよ!」とテレビに向かって怒鳴りつける。  リモコンを手に取って電源ボタンを押す。しかしテレビの電源は一向に切れず、ついたままである。  砂嵐がやむと(しょう)(しゃ)な館が映し出された。無音の映像が流れる。  館の周りの土手には一面、菜の花が咲き乱れていた。小道には立派な桜並木がある。モンシロチョウやアゲハチョウといった│蝶《ちょう》が花から花へと飛び交い、(みつ)(ばち)がぶんぶんと羽音を立てている。まさに春(らん)(まん)な光景が映し出される。  黒髪の少年は、陽気な春の雰囲気とは打って変わってジメジメとして暗い雰囲気を醸し出していた。つぎはぎだらけの風呂敷を背負い、薄汚くみすぼらしい着物を着ている。黒曜石のような瞳には生気が宿っておらず、唇は真一文字に結ばれている。まるで魂がどこかへ抜けていってしまったかのように表情がない。 「日向……?」  朔夜は思わず見知った少年の名前を口ずさんだ。着物を着た少年の容貌がおそろしいほどに、日向とうりふたつだったからだ。  少年が館の戸を叩くと、すぐに初老の執事が戸を開けた。初老の執事が、日向とうりふたつの容姿をした少年を館の中へ招き入れた。  階段を掃除中の歳若い女中が、ほうきを手にして、少年と執事が会話している様子を眺めていた。彼女は首を後ろにやって、背後にいる少年に何か話しかけた。  人見知りをしている少年の髪と目の色は、朔夜と同じ色をしていた。顔立ちや背格好が朔夜とよく似ていた。  朔夜と似た容姿をした少年は、女中の背中越しから、日向にうりふたつの容姿をした少年のことを、興味深そうに見つめていた。その頬は熟れたりんごのように赤かった。  サスペンダーでとめた半ズボンを穿()き、こざっぱりした白いワイシャツを着ている。胸元には、真紅のサテン生地のリボンが蝶々結びをされている。黒いエナメル質の靴はピカピカに磨かれ、土埃ひとつついていない。幼い朔夜でも、彼が金持ちの家の子息であることは、一目見て理解できた。 『どうだ、少しは楽しんでもらえたか?』  見知らぬ少年の声がして朔夜は、ぎょっとする。辺りを見回す。 『こっちだ、こっち』と呼ばれ、ふたたびテレビの画面へ目をやる。先ほどの映像に出てきた、朔夜と似た容姿をした少年が、ブラウン管の中にいた。彼はにっこりと朔夜に笑いかける。  現実離れした光景に朔夜は()(ぜん)とする。椅子から下りてテレビのほうへ近寄る。興味津津な様子で顎に手をやり、テレビに映る少年の姿をいろいろな角度から観察する。  少年は、咳払いをした。 『初めまして、だな。俺の名前は、みつき。(まん)(げつ)と書いて〈満月(みつき)〉と読む。おまえの親族だ。よろしく』

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