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第3章 桃5

 朔夜は、母親の言葉にぐうの音も出なくなる。「やだ、日向と遊べなくなるの。絶対に嫌だ」と今にも泣きだしそうな顔をして、生まれたての子鹿のように震える。  真弓はそんな息子の反応に苦笑いした。 「お父さんとお兄ちゃんが出てきたら、すぐお夕飯にするから、少しだけ待っていて。いいわね?」 「ほーい」  返事をすると朔夜はリビングまで走っていき、ドアを閉めた。そのままキッチンへ向かってガスコンロのつまみを回し、火を消す。香辛料のスパイシーな香りが食欲を(そそ)る。  カレーが黒焦げにならなくてよかった、と一安心する。  次に木製の食器棚から、兎と満月の絵が描かれた取り皿を出し、引き戸から銀色のフォークを見つけて机の上に並べていく。一通り終わったところで朔夜は自分の席につき、リモコンを手に取って、テレビをつけた。  ドアの向こう側から微かにに家族の言い争う声がして、朔夜はドアのほうを見る。真弓の怒声だけは、朔夜のいるリビングまで、はっきりと聞こえてきた。 「母ちゃん……少しは近所迷惑のことを考えろよな。ご近所さんに怒られるぞ」  溜め息をついてから朔夜は、ふたたびアニメを見はじめた。  クーラーの風に乗って、爽やかな桃の匂いが、ふわりと香る。  ちらっと朔夜はテーブルの上にある桃へと目線をやる。鮮やかな黄色い果肉は、(つや)(つや)していて見るからに甘そうだ。口の中に唾液が溜まるのを感じながら周囲を見回す。  ひとつくらい食っても、ばれねえよな?  椅子の上に立ち、机に左手をついて、そろりそろりと右手を皿に近づける。切れた桃をひとつ手に取ると両手で隠し、ものすごいスピードで椅子に座り直す。もう一度、周りに人がいないかを確認してから、朔夜は手の中の桃をじっと見てかぶりついた。歯(ごた)えのある果肉を嚙めば、甘い果汁がじゅわりと口内へ広がる。  あまりの美味しさに朔夜の頬は落ちそうになる。手の中にあった食べかけの桃を口へ放り込んで、よく味わう。  桃を食べている最中に突然、テレビ画面が暗くなり、クーラーも扇風機も止まり、部屋の明かりがすべて消えてしまった。  しょっちゅうブレーカーの落ちる家だったので、朔夜はさほど驚いたりしなかった。  頭の中の記憶と暗闇に慣れてきた目を頼りに、壁に掛けてある古めかしい懐中電灯を手にして、スイッチを押す。電池が切れかかっているのだろうか。薄暗い光がわずかに灯るだけで、どこか心許ない。  ないよりはましだ、と懐中電灯を片手に朔夜は、みしみしと(きし)む廊下を歩く。

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