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第3章 桃6

 十五夜の満月のようにも、海で取れた美しい真珠のようにも見えるアイスクリームを金色のスプーンで(すく)い、意気揚々と口へ運ぶ。  しかし口の中に入れる直前で朔夜は手を止めた。  この場には、自分と満月以外は誰もいない。  それなのにテーブルの上にあったメモ用紙に赤い文字が浮かびあがる。  ――「食べるな、毒入り」。  朔夜はバニラアイスに疑惑の目を向ける。 『食べないのか? 急がないと溶けてしまうぞ』  満月に声を掛けられ、テレビ画面を目にした朔夜の身体が凍りつく。  手元が狂って金色のスプーンを傷だらけのフローリングの床へ落としてしまう。  ブラウン管の中にいたのは満月ではない。風呂場で遭遇した黒いのっぺらぼうだった。  震える手で床に落ちたスプーンを拾い上げ、アイスの器とともに机の上へ置く。 『朔夜、どうした?』  心臓が大きな音を立て、全身に冷や汗を掻く。  初めて朔夜は作り笑いというものをした。声が震えないように細心の注意を払う。 「悪い、満月さん。やっぱりアイスを食べるのは遠慮しとくよ。母ちゃんに夕飯の前にデザートを食うなって言われてるんだよ。それに明日は日向とプールに行く日だからアイスの食べ過ぎで腹をこわしたら大変だ! せっかく、美味そうなものをいただいたのに申し訳ねえ。気持ちだけもらっておくよ、ありがと」  満月は、朔夜の言葉を耳にすると目をすっと細め、口を閉ざした。何を考えているのか読み取れない目つきで朔夜のことをじっと見る。  朔夜は、テレビから黒いのっぺらぼうが出てこないことを願いながら口角を上げる。(おび)えていることをひた隠しにし、「笑顔」という名の仮面を顔に貼りつける。  壁に掛けられたアナログ時計が時を刻む。カチコチという音が異様なほど室内に響く。  数分、あるいは数秒後に、満月は残念そうな笑みを浮かべて口を開いた。 『そうか、残念だ。その氷菓子は、俺がおまえに与えたもの。どう扱おうとおまえの自由だ。では、俺はこの桃をいただくとしよう』 「あっ、ああ。どうぞ召しあがれ」  満月はアンティーク調の机の上へ白い皿を置き、行儀よく椅子に腰掛けた。  そうして――欲が強すぎたために(ろく)(どう)のうちの()()(どう)へ落とされ、()えと(かわ)きに苦しむ餓鬼のように――両手で桃を(わし)摑んで貪り始める。  あっという間に桃が、なくなる。  しかし満月のもっと桃を食べたい、味わいたいという欲望は、ますます強くなる。彼は自分の手や皿に付着している桃の果汁を、いじましく()め回していた。  朔夜は、満月の樣子に薄気味悪さを感じた。狂犬病に()(かん)した野犬や、おとぎ話に出てくる悪いおおかみ、人間に襲いかかる怪物を連想させる食事風景にゾッとする。  桃の香りが完全に消えると満月は舐めるのをやめ、ぞんざいに皿を机の上へ放り投げた。桃のほどよく冷たい感触や弾力、味に満足し、赤い舌で唇をぺろりと舐める。 『()(そう)になった。美味い桃をありがとう』 「う、うん。……お粗末さまです」 『もっとおまえと話したいところだが、どうやら時間のようだ。()()会おう、朔夜』  満月は、にたりと笑った。  テレビの画面がまた砂嵐になり、耳障りな音がする。  緊張が解けたと同時に、どっと疲れが出た朔夜は、大きな欠伸をして目をごしごしと擦る。布団を敷きに行こうと寝室へ向かう。  真弓たちはどこへ行ったのか、満月はどうやってテレビに映りながら家にある桃を取れたのか。考えなければならないことは山のようにあった。だが、ひどい眠気に襲われて、朔夜は何も考えられなくなってしまう。  まるで酒を大量に摂取した酔っぱらいのように(めい)(てい)状態になり、冷たいフローリングの床へ倒れ込んだ。  そのまま静かに寝息を立て眠りの世界へ旅立った。  どこかから母親の声がして朔夜は目を開ける。寝ぼけ眼で起き上がる。何かに頭を思い切りぶつけ、その衝撃で朔夜は覚醒する。  自分は寝室へ向かう途中の床に寝っ転がっていたはず。それなのに真っ暗でカビ臭い空間にいることに気づく。  錯乱状態になった朔夜は、目の前にある壁をしきりに叩き、大声で母親を呼んだ。  真弓は、和室のがたついている押入れの(ふすま)を半ば強引に開き、朔夜の身体を力いっぱい抱きしめた。  目を潤ませた朔夜は、ひしと母親に抱きつき返した。 「母ちゃん……」 「馬鹿っ! なんで、こんなところにいるのよ。心配したんだから……」 「ご、ごめんなさい。俺も、なんでここにいるのか、よくわからねえんだ。それより大変だよ、母ちゃん! 変なやつがいたんだ!」  怪訝な顔をして真弓は「変なやつ?」と朔夜に訊き返す。  燈夜と耕助がやってきた。 「母さん? 朔夜、見つかったんだね」 「なんだよー、朔夜。そんなところに隠れていたのか。隠れるのが上手いな。駄目だぞ、夜中にかくれんぼなんかしたら。悪いお化けに連れてかれちゃうぞー!」  胸の前で両手を垂らして「ひゅーどろどろ」と耕助はお化けの真似をする。  朔夜は、真弓の腕の中から抜け出すと父親の手を摑み、引っ張った。 「そうなんだよ、父ちゃん! 黒いのっぺらぼうが風呂場にいたんだ。俺、お湯の中に引きずり込まれたんだ!」 「ええっ!?」  耕助は真弓にアイコンタクトをとり、助けを求める。

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