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第3章 桃11
この場には、自分と満月以外は誰もいない。それなのに、テーブルの上にあったメモ用紙に赤い文字が浮かんでいく。
……「食べるな、毒入り」?
朔夜はバニラアイスに疑惑の目を向ける。
『食べないのか? 急がないと溶けてしまうぞ』
満月に声をかけられ、テレビ画面を目にした朔夜の身体は、凍りついた。手元が狂い、金色のスプーンを、傷だらけのフローリングの床へ落としてしまう。
ブラウン管の中にいたのは満月ではなく、あの黒いのっぺらぼうだった。
震える手で床に落ちたスプーンを拾い上げ、アイスの器とともに机の上へ置く。
『なんだ、朔夜。どうした?』
心臓が大きな音を立て、全身に冷や汗をかく。なるべく不自然に見えないように朔夜は作り笑いをした。声が震えないように細心の注意を払う。
「悪い、満月さん。やっぱり、アイスを食べるのは遠慮しとく! 母ちゃんに、夕飯の前にデザートを食うなって言われていたし、明日は日向とプールに行く日なんだ。アイスの食べ過ぎで腹をこわしたら大変だよ! せっかく、うまそうなものをいただいたのに、申し訳ねえ。気持ちだけ貰っておく。ありがとな」
満月は、朔夜の言葉を耳にすると目をすっと細め、口を閉ざした。何を考えているのか読み取れない目つきで、朔夜のことをじっと見る。
朔夜は、テレビから黒いのっぺらぼうが出てこないことを願いながら、口角を上げる。怯えた心を隠すように、「笑顔」という名の仮面を、顔に貼りつける。
壁に掛けられたアナログ時計が時を刻む。カチコチと鳴る音が、異様なほどのボリュームで室内に響く。
数分、あるいは数秒後に、満月は残念そうな笑みを浮かべて口を開いた。
『そうか、それは残念だ。だが、その氷菓子は、俺がおまえに与えたものだ。どう扱おうとおまえの自由。さて、俺は、この桃をいただくとしよう』
「あっ、ああ。――どうぞ召しあがれ」
満月はアンティーク調の机の上へ白い皿を置き、行儀よく椅子に腰かけた。
そうして、物欲が強すぎたために六道のうちの餓鬼道に落とされ、飢えに苦しむ餓鬼のように両手で桃を鷲摑み、貪る。桃はすぐになくなってしまったが、満月のもっと桃を食べたいという欲望は、ますます強くなる。彼は、自分の手や皿にかろうじてついている桃の果汁を、舐 め回した。
朔夜は、満月の食事風景を眺めながら、薄気味悪さを感じていた。彼の食事の仕方は行儀の悪い子供の食べ方とは違った。狂犬病に罹 患 した野犬やおとぎ話に出てくる悪い狼 、人間に襲いかかる怪物を連想させるものだった。
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