32 / 159

第3章 桃11

 この場には、自分と満月以外は誰もいない。それなのに、テーブルの上にあったメモ用紙に赤い文字が浮かんでいく。  ……「食べるな、毒入り」?  朔夜はバニラアイスに疑惑の目を向ける。 『食べないのか? 急がないと溶けてしまうぞ』  満月に声をかけられ、テレビ画面を目にした朔夜の身体は、凍りついた。手元が狂い、金色のスプーンを、傷だらけのフローリングの床へ落としてしまう。  ブラウン管の中にいたのは満月ではなく、あの黒いのっぺらぼうだった。  震える手で床に落ちたスプーンを拾い上げ、アイスの器とともに机の上へ置く。 『なんだ、朔夜。どうした?』  心臓が大きな音を立て、全身に冷や汗をかく。なるべく不自然に見えないように朔夜は作り笑いをした。声が震えないように細心の注意を払う。 「悪い、満月さん。やっぱり、アイスを食べるのは遠慮しとく! 母ちゃんに、夕飯の前にデザートを食うなって言われていたし、明日は日向とプールに行く日なんだ。アイスの食べ過ぎで腹をこわしたら大変だよ! せっかく、うまそうなものをいただいたのに、申し訳ねえ。気持ちだけ貰っておく。ありがとな」  満月は、朔夜の言葉を耳にすると目をすっと細め、口を閉ざした。何を考えているのか読み取れない目つきで、朔夜のことをじっと見る。  朔夜は、テレビから黒いのっぺらぼうが出てこないことを願いながら、口角を上げる。怯えた心を隠すように、「笑顔」という名の仮面を、顔に貼りつける。  壁に掛けられたアナログ時計が時を刻む。カチコチと鳴る音が、異様なほどのボリュームで室内に響く。  数分、あるいは数秒後に、満月は残念そうな笑みを浮かべて口を開いた。 『そうか、それは残念だ。だが、その氷菓子は、俺がおまえに与えたものだ。どう扱おうとおまえの自由。さて、俺は、この桃をいただくとしよう』 「あっ、ああ。――どうぞ召しあがれ」  満月はアンティーク調の机の上へ白い皿を置き、行儀よく椅子に腰かけた。  そうして、物欲が強すぎたために六道のうちの餓鬼道に落とされ、飢えに苦しむ餓鬼のように両手で桃を鷲摑み、貪る。桃はすぐになくなってしまったが、満月のもっと桃を食べたいという欲望は、ますます強くなる。彼は、自分の手や皿にかろうじてついている桃の果汁を、()め回した。  朔夜は、満月の食事風景を眺めながら、薄気味悪さを感じていた。彼の食事の仕方は行儀の悪い子供の食べ方とは違った。狂犬病に()(かん)した野犬やおとぎ話に出てくる悪い(おおかみ)、人間に襲いかかる怪物を連想させるものだった。

ともだちにシェアしよう!