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第3章 桃16

 鼻を嚙みながら朔夜は「母ちゃん、俺、嘘つきじゃねえよ。信じてくれよ」と神にも祈るような気持ちで言う。 「ええ、もちろんよ。私は、あんたのことを信じるわ」  朔夜は泣くのをぴたりとやめ、恐る恐る頭を上げて母親の黒い瞳を見た。灰色の瞳を不安げに揺らして、言葉だけでは読み取れない彼女の真意を探ったのだ。 「母ちゃん、なんで……?」 「当たり前でしょ。あんたが、嘘のつけない馬鹿正直な子だって、私が一番よく知っているんだから」  約束を破り、勝手に桃を食べたことについて叱るべきだ。そんなことは、真弓にだってわかっていた。実際、朔夜が素直に人の言うことを聞かないのは、日常茶飯事のことだし、本人も「一切れ食った」と言っている。  だが――今回の件は、どうも()に落ちないところがあった。  それに、真弓も変なものを見てしまったのだ。  夫と長男のふたりをまとめて風呂に入れることに成功し、洗濯物を選別していると洗面所の鏡に、真っ黒な人間が映った。  全身を黒い衣装に身を包んだ怪しげな人物だとか、黒い肌の人間ではない。文字通り()()()だったのだ。肌も、目も、唇も、歯の一本一本ですら黒い。黒いインクで作った人造人間のような物体が、廊下のほうへノソノソと歩いていくのを彼女は目撃したのである。  もちろん、妖怪や幽霊なんて非科学的なものは、真弓だって毛頭信じていない。  洗面所の鏡が映すのは、真向かいにある風呂場のガラス戸とその間に立つ真弓自身だけだ。もしもなにかが立っていたりしたら、すぐに気づく。  幻覚を見るなんて……私ったら、疲れているのかしら?  真弓は、左の拳で右の肩を軽く叩き、首を左右に傾けた。洗濯ネットのチャックを閉め、洗濯機の中に放り込んで、スイッチを押す。洗濯機が回り出して、けたたましい音を立てて服を洗い始める。  朔夜は、ちゃんとお手伝いをしてくれたかしら? 桃やアイスを食べるなんて言っていたけど、つまみ食いをしていないでしょうね。  そんなことを思いながら、再び目線を鏡にやると真弓は身体を硬直させた。  黒い水の中に引きずり込まれていく朔夜の姿が、映っていたのだ。  瞬きをするとその像は消え去り、目の下にクマがあるくたびれた女の姿しか映っていない。  なによ、今の……。  胸騒ぎを覚えた彼女は、急いでリビングへ向かった。  リビングに続くドアを開ける。リビングに朔夜の姿はなかった。お気に入りのアニメのエンディングテーマが流れたままの状態で、テレビの机の上には皿とフォークが綺麗に並べられていた。桃をつまみ食いした形跡はない。

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