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第6章 毒を飲んだマリオネット1
気がつくと日向は舞台の上ではなく、一面の銀世界にいた。
しんしんと粉雪が降る。ハッカ飴を口に入れたみたいに鼻の奥がスースーし、吐く息はどこまでも白い。
現実の世界では六月――ちょうど梅雨の季節だ。雨が降り、肌寒い日があるとはいっても快晴なら、汗ばむほどに暑い。空色の薄手のジャケットを白いシャツの上に羽織っているだけの軽い装いでは、冬の寒さを堪え忍ぶことなど不可能だ。
ぶるりと身震いをひとつする。日向の刀を握る手は早々にかじかみ、足のつま先が氷のようにひんやりと冷たくなっていく。
辺りを見回すものの黒坊主の姿は一向に見当たらない。
真白な雪をさくさくと踏みしめて日向は足を進めた。
*
十五歳の日向は、この公園で朔夜が来るのを待っていた。
“強くなって父親を説得すること”に限界を感じ、朔夜に泣きついたのだ。昔、約束をした駆け落ちをしたい、と。
駆け落ちが失敗に終わることは日向と朔夜もわかっていた。
中学を卒業したばかりの子どもに何ができる? たとえ他県へ出ることができたとしても、すぐに捜索依頼をされた警察に見つかり、家へ連れ戻される。逃げ場所など、どこにもないことを理解していた。
それでも日向は朔夜に会いたかった。
だが、その願いは叶わなかった。
朔夜は“日向を守る”という約束のためにこの公園で待っていた日向を迎えに向かった。
しかし――約束を果たさなかった。
いや、果たせなかったのだ。
*
石づくりの階段を上りきると黒い傘をさした全身黒ずくめの男が、ぽつんと立っていた。
黒いマフラーを巻き、黒い手袋をして、黒いコートに身を包み、黒のスラックスを穿いている。まるで喪服でも着ているような出で立ちだ。その男は、鳶色の髪に白い肌、灰色の瞳をしていた。
寒さによってひび割れた唇を舐めて湿らせる。日向は躊躇いがちに「叢雲さん」と男に声を掛けた。
すると、ことさらゆっくりとした動作で、朔夜が顔を上げた。ガラス玉のように曇った灰色の瞳で日向を見つめる。
「……刀なんて物騒なものを手にして、どうしたんだ。日向」
季節はずれな月下美人の匂いが香ってくる。朔夜のフェロモンを嗅ぎ取った日向は項垂れた。
どんなに容姿が似ていても【亡霊】と朔夜では纏う香り が違う。自分のもとへ近づいてくる人間が正真正銘、本物の朔夜であることを知り、刀を握る手から力が抜ける。
「震えているな。そんな格好じゃ寒いだろ」
一歩一歩黒い革靴で雪を踏みしめながら朔夜は日向のもとへと足を進めた。
「それとも、俺が怖いか? ――そうだよな。おまえを裏切り、犯し、殺そうとしたアルファだ。おまえは殺したいほどに俺のことを憎んでいるんだろ」
「いいえ、違います。真実にたどり着いた今、あなたのことを怖いとは思っていません。僕がおそれているのは……怖いのは、あなたを傷つけてしまうことです」
震える唇を開くと驚くほどに弱々しい声が出た。そんな自分に日向は驚きあきれる。頭を上げて、こちらへ向かってくる朔夜のことをじっと見つめ、目を細める。
「あなたではなく、【亡霊】に――叢雲満月に犯されたことを思い出しました」
無表情のまま「今さらだな。やっと気づいたのか」と朔夜は小声でつぶやいた。
「だから言っただろ。『俺は、嘘なんかついてない』――って。だけど、おまえは満月の暗示にまんまとかかって、俺を最後まで信じてくれなかった。操られているとはいえ、魂の番であり、結婚相手である恋人の言葉よりも【亡霊 】の言葉を受け入れ、信じたんだ。それでも俺は、おまえが真実を告げてくれることを願った。だけどおまえは、『朔夜 に犯された』って、みんなの前で嘘の証言をした」
朔夜の言葉に、日向は肩をびくりと揺らした。
「おまえが満月に記憶を書き換えられたんだって、すぐに気づいたよ。馬鹿だった。あいつが、逃げ道を残すわけがないのにさ。なのに、俺はヒーローを気取って愚かにもおまえを助けようなんて考えた。おまえなんかのために毒まで飲んで死にかけるなんて――どうかしてたよ」
「そんなことを言うのは、よしてください……」
今にも泣きそうな声で日向はつぶやいた。
朔夜に向かって刀は振るえない。
ここが現実の世界でなくても、朔夜を斬りつけることなど、日向にはできなかった。
オメガだから、魂の番である運命のアルファに逆らえないのではない。
まだ彼のことを愛していたからだ。これ以上、朔夜を傷つけるような真似は、できなかったのだ。
峰打ちという手もあるが【亡霊】がどこから見ているか、何をするかわからない。そんな状況下で万が一にでも刀が急所に入ったら、現実で眠っている朔夜は確実に死ぬ。
刀は壊れた首輪へと戻り、首輪も日向の手の中で光の粒子と化し、消えてしまう。
「以前、言ってくれましたよね? 『俺たちが一緒にいると周りの人を不幸にする。だから――別れよう』って」
朔夜は、日向の前までやってくると足をピタリと止めて、日向のことを見下ろした。
「僕が、婚約者であるあの人と付き合うきっかけを作ってくれたのは、あなたです。僕らが結婚をすることになると知ったときも、電話口で祝福をしてくれました。あなたは、昔から嘘をつけなかったはず。あの言葉は……」
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