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第7章 星のような人
*
「――日向」
「なんですか?」
婚約者である男に話しかけられ、日向は振り向く。読んでいた【亡霊】に関する論文を机の上に置いて、立ち上がる。
「あのさ、おまえにやった指輪、ちょっと貸してくんねえ?」
「えっ? あ、はい……わかりました」
そうして、彼からもらった婚約指輪を日向は左手の薬指からはずした。シルバーの華奢なリングに透明な水晶がついたものだ。
男は日向から指輪を受け取ると目を閉じて指輪を握った。
「何をしているんですか?」
「おまじない。おまえが【亡霊】に傷つけられねえようにするための」
そうして男が目を開いた。ラベンダーを連想させる紫色の瞳が日向の姿を映し、にっと猫のように目を細めて苦笑した。
「って言っても、あんま意味なさそうだけどな……幽霊や悪魔を退治する神父や祓魔師 じゃねえから。なんの効力もねえだろうけどさ、なんつーか、気持ちとか気分的なもの?」
唇を尖らせて喋りながら、男は指輪をチェーンのネックレスに通した。それから日向の首の後ろに手を回し、指輪のついたネックレスをつけた。
「ん、似合ってるな。綺麗だ」
犬や猫をかわいがるように男は機嫌よく、日向の濡れ羽色の髪をワシャワシャと撫でた。
普段の日向なら「ちょっと、やめてくださいよ!」と怒り、男の手を払いのけようとしただろう。しかし、日向は男にされるがままで抵抗するそぶりをひとつも見せない。きゅっと唇を引き結んだ状態で男を見ようとしない。目線は下を向いていた。
男は日向の表情を見て、何を考えているのか理解した。
出会った日から今日まで
「……どうした? 元気がねえな」
男のいないタイミングを狙って【亡霊】は日向に接触を繰り返していた。
【亡霊】に囚 われそうになり、その度に死ぬほどおそろしい思いをした。母親の明日香や男の家族、果ては無関係な一般人までもが【亡霊】の被害に遭っている。
――十年以上前に【亡霊】にレイプをされてから【亡霊】の姿を見かけることはなかった。それは朔夜が自らを犠牲にして【亡霊】が出てこれないように抑え続けてきたからだ。朔夜は【亡霊】の策略にはまった日向を憎むことも、責めることもなく、物理的に距離を置いて、ひとりで【亡霊】と戦い続けた。
だが、それも限界を迎えた。
朔夜のいとこである和泉とその妻である絹香から朔夜が過労で倒れたと連絡が入った。朔夜は昏睡状態となり、目を覚まさない。ずっと病院のベッドで眠り続けている。
【亡霊】の罠にかかり、過去の世界に閉じ込められたとき、現実世界ではすでに死んでいる曽祖父のヒムカと出会った。そして曽祖母の琴音のおかげで【亡霊】の暗示が解けて、すべてを思い出した。
同時にどれだけ朔夜にひどいことをしてきたのかを日向は気づいてしまった。
恋人を助けようとして死にかけた。それなのに、助けようとした恋人にやってもいないことをやったと言われ、濡れ衣を着せられる。
【亡霊】の不思議な力によって自身が死にかけ、病院で救命処置を受けた記録も消失している。入院していたときに世話になった医師や看護師、見舞いに来てくれた家族の記憶も操作され、消えてしまっている。
信じていた恋人に裏切られ、家族も味方をしてくれない。友だちだと思っていた人間たちから侮蔑の眼差しを向けられる。今まで守ってきた者たちに手の平を返され、だれも味方がいない。孤立無援。
精神が摩耗し、怒りと悲しみで我を忘れてしまいたくなる中でも、最後まで理性を失わなかった。【亡霊】という正体不明の敵と孤独に戦う決意をした。
その胸中は計り知れない。
「……僕は、さくちゃんを追いつめてしまいました。もしも僕が【亡霊】の罠にかからなければ、彼が傷つくことも、苦しむこともなかったのに」
男は日向の頭を撫でるのをやめ、手を離した。
「あいつは、おまえのせいだなんて思ってねえよ。言われたことがあるんだ。『理由はわからねえけど、暁がいると【亡霊】が出てこねえ。たとえ、出てきても【亡霊】としての力を使えない状態でいる。だから日向のそばにいて守ってくれ』って」
日向は顔を上げて目の前の真剣な顔つきをしている男のことを見つめた。
「朔夜は、おまえのことを恨んでなんかねえ。ただ、おまえのそばにいたら【亡霊】に操られて傷つけちまうから離れた。おまえを自分の手で悲しませて、不幸にしたくないから二度と会わない覚悟すら決めて、オレに託した」
「……僕の幸せは僕が決めるのに。……さくちゃんってば、ほんと、勝手なんだから」
掠れた声で日向は朔夜への悪態をついた。その表情は曇ったまま、晴れることはなかった。
男は日向の身体を包み込むようにして抱きしめた。力強い声で男は「大丈夫だ」と言いきった。
「朔夜は助かる。絶対に死んだりしない。そのために、おまえも【亡霊】のことを調べてるんだろ? これ以上、だれも死なないようにするために」
「ですが……」
「戦う前から不安になってどうする? もっと自分を信じろよ」
男の名前を日向は口ずさんだ。
「【亡霊】を止めて朔夜を解放する。おまえなら、ぜってえできるよ」
その言葉に胸がいっぱいになり、鼻がツンとする。日向は男の肩に顔を埋めた。
不屈の精神を体現したような男の身体を抱きしめ返し、静かに目を閉じた。
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