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第10章 王子様2

「でも、みんながみんな、光輝くんたちみたいに意地悪をする人じゃないよ。この町には優しい人やいい人たちも、いっぱいいるんだ。そこのところは誤解しないでね」と日向がフォローを入れる。 「それは、もちろんです。わかっています!」と菖蒲は語気を強くして日向に向かって言い放った。「わたし、父の仕事の関係でいろいろな県に転校しましたが、いじめを受けたことなんて一度もなかったんです。だから――こんなことになるなんて夢にも思っていませんでした!」  むっとした顔をしたまま菖蒲は窓辺へ立つ。  近くの木でミンミンゼミの鳴く声がする。開け放った窓から清涼な風が吹いてきた。  学校の近くに建てられた、どこか古めかしい家屋の側に野菜畑がある。遠くの山々の木々は青々と生い茂り、夏の空と綿あめのように白い雲のくっきりとしたコントラストが夏真っ盛りだと告げる。 「この町は時間がゆっくりしていて、都会で感じていた(けん)(そう)を忘れさせてくれます。空気だけでなく水や食べ物も美味しいです。そこら辺を歩いていれば町の人たちが声を掛けてくれて、おうちでお茶菓子をいただけることも、畑で採れた新鮮な農作物を分けていただけるのもありがたいと思います」  いろいろといやなこと、苦しいこともあったが、それでも住み慣れたこの町が朔夜と日向は好きだったのだ。彼らは菖蒲の言葉を聞いて嬉しく思い、胸がじんとした。 「ですが――」と菖蒲は、朔夜たちのほうへ振り返る。珍しく険しい顔つきをして、きっぱりと「日ノ目くんたちを好きになることは、できません」と宣言した。  嫌悪感をあらわにし、光輝の悪口を言っている菖蒲に対して、豊橋は(あい)(まい)な笑みを浮かべる。 「虹橋さん、そういう言葉を気軽に口にしては駄目よ。日ノ目くんにだって、いろいろと家庭の事情があって、そういうことをするようになったんだから」 「えー! そんなの理由になりませんよ」と菖蒲は口元に手をやり、ケラケラ笑う。「みんながみんな、毎日楽しいこと、嬉しいことがあるから笑顔でいるわけじゃありません。“隣の芝生は青く見える”。自分が不幸だからって、他の幸せそうな人間を攻撃するなんて、そんな道理――クソ食らえです」 「でもねえ……」 「権力を握っているアルファが親戚にいるからって、先生方は日ノ目くんのことを贔屓(ひいき)するんですね。彼のやってることって正しいですか? たしかにわたしの断り方も悪かったでしょう。ですが、そのせいでこんな仕打ちを受けなければいけない理由ってあります? 卒業まで半年ちょっとだから、黙って我慢してろと? あの人たちのほうが間違っていないとでも先生は思ってるんですか?」  豊岡は困り果て、菖蒲に対して何も言えなくなってしまう。  日向は朔夜の道着の袖をこっそり引っ張って、耳打ちをする。 「ねえ、さくちゃん。なんだか菖蒲ちゃん、いつもと様子が違うよ」 「精神的にこたえてるんだろ。光輝は今回どうだか知らねえけど、取り巻き連中は虹橋のことを、『新しいおもちゃ』として面白がってるからな」 「ねえ、このままでいいの? 豊岡先生も困っているみたいだし……僕たちで、なんとかできないかな?」  朔夜は、どうしたものかと頭を悩ませた。 「やめて、菖蒲ちゃん」  ずっと沈黙を貫いていた空が口を開く。風に吹れたらどこかへ飛んでいってしまいそうな、弱々しい声でポツリと言う。 「お願いだから、これ以上お兄ちゃんのことを、そんなふうに言わないで」 「空ちゃん……」  今にも泣き出しそうな空の顔を目にして、菖蒲はとうとう口をつぐんだ。  そっと息をつきながら、朔夜は鳶色の頭を掻いた。 「空の言う通りだぞ、虹橋。貴重な休み時間を光輝の愚痴で終らせるなんて、もったいねえ。あいつの愚痴を言うな、なんて言わねえけど、時と場合ってもんがあるだろ。喋るのは昼休みか、放課後にしとけよ」  ムッとした顔をして、菖蒲はドアのほうまでスタスタ歩いていく。 「菖蒲ちゃん! ひとりだと危ないよ。僕がついていく……」と日向が言っている最中にもかかわらず、菖蒲は「いえ、結構です。ありがとうございます」と日向の申し入れを笑顔で断った。それから、空に申し訳なさそうな顔をして謝った。 「ごめんなさい、空ちゃん。いやな思いをさせましたね」  空はゆるく(かぶり)を振った。 「そうじゃないの。むしろ謝らなきゃいけないのは、私のほう。お兄ちゃんのせいで菖蒲ちゃんが苦しんでるんだもん」 「それは、そうですが……」 「お兄ちゃんがやっていることはおかしいって、わかってる。人から悪く言われても仕方のないことをしてる。でも、私はそれを止められない。止めようとしない」  空は膝に載せた両手をぎゅっと握りしめ、儚げなに微笑んだ。 「家だけでなく、学校でもお兄ちゃんと顔を合わせるのがいやで……ほかの人に気を遣わせるのも、お兄ちゃんや、お継父(とう)さんのことを言われるのも怖くて、相談室(ここ)にいる。教室に行くこともできない私は、すごく弱虫なの」 「空ちゃん……」

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