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第13章 夢1

「んっ……」  日向は目を覚ました。顔の下には理科の問題集とノートがあり、その横には学校の教科書が広げられている。右手は朔夜から誕生日プレゼントとしてもらった青いシャーペンを握っていた。  いつの間にか受験勉強をしている最中に寝てしまったのかと彼は目を擦った。  半袖のパジャマを着た肩には大判のひざ掛けが、かけられている。 「お母さん、掛けてくれたんだ」とひとりごとをつぶやき、日向はシャーペンを置いた。  机の上にあった飲みかけのブラックコーヒーの入ったカップを手に取って、口をつけた。クーラーの冷気で冷えた黒い液体で喉を潤し、勉強机の棚の上から教科書でなく分厚い本を取り出した。  病気と薬の歴史について書かれた書籍をパラパラと眺めていれば、何度も繰り返しみたバース性の項目が彼の目に飛び込んでくる。オメガの発情期を抑える抑制剤がアメリカで作られ、近年ではアルファの抑制剤も使われるようになった経緯が二ページに渡って書かれている。  そして右ページの後半には、八十年代前半に番契約による事故を抑制するために忘却の薬・レテが登場したことが五行でまとめられていた。  レテは不本意な発情期によって予期せぬ番契約を結んでしまったオメガの番を解消してくれるが、副作用が強く内臓に負担がかかる。  薬を繰り返し使ったインドと中国、アメリカとロシアのオメガは記憶障害になり、過去十年の記憶をすべて失った。中にはすべての記憶を失い、自分の名前や家族、愛する人も忘れ、言葉や歩くことすらできなくなってしまった人間までいる。そして息をすることも忘れ、亡くなった人間が多いことから社会問題とされている……と書かれた部分を読み終えると日向は本を閉じた。  本を棚に戻した日向はため息をつき、壁に貼りつけてある高校のポスターを眺めた。  朔夜とともに行こうと約束した私立高校のポスターだ。中学の担任からもらったそれを日向は食い入るように見つめていた。  彼は両頬を両手で叩き、理科の問題集やノート、教科書を片づけ、棚にあった英語の問題集とノートと辞典を取り出した。  机の上にある四角いデジタル時計は朝の四時三十分であることを表示している。  もし――母親である明日香が忘却のレテを使っても、日向の成績がよければ、奨学金制度への切り替えだって可能だ。三年間、高校へ通える。そこでもいい成績を残せれば大学へ、そこでもよければ大学院へ通える。大学は東京を考えているが、奨学生用のまかない飯つきの学生寮だってあるし、アルバイトをすれば少しは自由に使えるお金も手に入る。  早く大人になりたい。オメガでも正社員として自由に働ける。働いている人たちのようになりたいと願いながら、彼は英語の長文読解の問題へ目を通し、シャーペンをノートに走らせた。  五月に日向は十五の誕生日を迎えた。それから二ヵ月近く経つ。  七月になっても日向には精通もなければ、発情期も来ていなかった。  母親である明日香は自分の息子に何かあるのではないかと心配していたが、とうの本人である日向は、その状況をありがたがっていた。勉強に集中できることを感謝していたのだ。  クラスメートの男子たちが、悶々としながらエロ本や、好きな子や気になる子とキス以上のことをしたいと思い、夜も寝れなかったり、勉強に集中できずにいることを日向は知っていた。女子も女子で、月に一度あるものによる腹痛や頭痛、精神不安定で悩まされている子がいた。痛み止めを飲んで学校に来て、授業に参加する者もいれば、あまりの痛みによって保健室へ駆け込んだり、早退や学校を休んでしまう者までいたのだ。  何よりオメガは思春期を迎えれば、三ヵ月に一度発情期が起きる。アルファを求めて理性をなくし、セックスのことしか考えられなくなるのだ。  つい最近テレビで放映された、抑制剤を飲み忘れたオメガが人目もはばからず、町中で何人ものアルファと性行為に及んだ事件を日向は思い出していた。  男としても、オメガとしても未熟な体をしていても彼には構わなかった。  ただ大好きな朔夜の側にいて、母親である明日香を人間として、息子として支えられるようになれれば、後はどうでもよかったのだ。 「難しいことをしていますね。英語の勉強をしているんですか?」  陽炎は日向の背後に立ち、日向の顔を覗き込む。  瞬間、日向は机の横にある木刀を手に取り、立ち上がった。  日向の殺気に気づいた陽炎は後ろへ飛んだ。 「誰? どうして、ここにいるの?」  不審な人物が自分の部屋にいる事実に日向は恐怖した。  玄関の鍵は、いつものように施錠しているし、窓も開け放っていない。それに日向の家は丘の上にあり、日向の自室は二階にある。隣近所は車で五分行った先にあるし、何より日向が住んでいた地区には高校生や大学生がいない。中学生は日向だけで、後は見知った町の小学生と幼稚園児だけだ。  ましてや、その人物が鏡に映った自分のような似た容姿をしているのだから、じつに不気味である。  問いかけに大して陽炎は「忘れてしまったんですか、私のことを」と答え、微笑んだ。

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