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第13章 夢3

 夕飯は日向の大好物の魚が出た。  明日香の父親――日向の母方の祖父が川釣りでとった新鮮な鮎を、東京近郊のベッドタウンに住んでいる明日香と日向のために持ってきてくれたのだ。  さっそく明日香は鮎の天ぷらを揚げた。それ以外にも野菜たっぷりのかき揚げやナスにししとう、しいたけの天ぷらも用意し、おろし大根つきの天つゆを作った。  若い頃に女中奉公をしていた日向の祖母直伝の味噌汁とだし巻き卵を作って雪緒の帰りを待っていたのである。  テーブルの上には、ふせられたご飯茶碗とみそ汁用の椀がある。黄色いだし巻き卵が載った白い皿には透明なラップがかけられていた。 「――お母さん、食べようよ。お料理、冷めちゃう」  ぐうっと盛大にお腹を鳴らした日向は、明日香のエプロンの裾の端をクイクイと引っ張った。 「ごめんね、日向。もう少しだけ、お願い。もうちょっとだけ待ってて。ねっ……」 「お腹空いたー! ご飯ー!」  かれこれ三十分以上待った日向は、その場で地団駄を踏んだ。  涙目になる息子に困り果てた明日香は、しいたけの天ぷらをとり、茶色く透き通った天つゆに軽く浸した。 「じゃあ、少しだけ味見ね。あーん」 「あーん!」  天つゆに絡めてもサクサクの天ぷらを日向は口に入れてもらった。  だしの食欲をそそる香りがふわっと口内に広がる。コリコリとして歯ごたえのあるしいたけを噛みながら、日向はきのこの香りと甘じょっぱい天つゆの味を楽しんだ。 「おいしい!」 「よかった……お父さんが帰ってきたら、いっぱい食べていいからね」 「本当!?」 「もちろん」 「やったあ!」  するとFAX機能つきの電話が、けたたましい音を立てる。  明日香は肩をビクリと震わせた。どこか不安そうな顔つきをして席を立ち、グレーの受話器を取る。 「はい、碓水です。……雪緒さん! お仕事、お疲れ様です。今、どこにいるの? 今日は飲み会も、残業もなくて、定時上がりだって言ってたわよね」  日向は明日香が何を話しているのか、よくわからなかった。それでも母親が眉を八の字にして、「どうして? 時間通りに帰ってきてくれるはずじゃなかったの?」と悲しげな様子で話しをしていることから、今夜も父親の今帰りが遅くなるのだと確信した。 「――そう、お仕事なら仕方ないわね。がんばって、それじゃあ」  明日香は静かに受話器をもとに戻した。その背中は、ひとりぼっちになり、友だちに取り残されてしまった少女のように、さびしげだ。  どうしたら元気になってくれるのだろう? と悩みながら日向は「お母さん」と明日香に声を掛ける。  振り返った明日香は眉を八の字にしている幼い息子を抱きかかえた。 「まったく、やあね。お父さんったら仕事、仕事ってそればっかり。いつも約束を守ってくれないんだもん」 「……うん」 「ごめんね、日向。いっぱい待たせちゃったね。お父さん抜きでお夕飯、一緒に食べよっか!?」  そうして明日香がいつものように笑ってくれたら日向の心は、ぱっと明かりがついたように明るくなった。 「うん! お母さん、食べよう!」  そうして夕飯を親子ふたりで済ませたのだ。ふたりはお風呂に入り、一緒に歯磨きをした。  日向は自分でパジャマに着替えベッドルームのベッドにダイブする。 「日向、髪の毛を乾かすから、こっちにおいで」 「はーい!」  化粧台の前の丸椅子へと日向はおとなしく座った。  桃色のドライヤーを手に取った明日香は幼い息子の髪を丁寧に乾かしていく。  明日香に髪の毛を手でとかしてもらいながら日向は、足をぶらつかせ、鼻歌を歌った。 「はい、おしまい」 「ありがとう、お母さん」 「どうしたしまして。先にお布団で寝てられる?」 「うん!」と返事をした日向は、ふたたび大きなキングサイズのベッドの上で寝転がる。 「こら、ちゃんとお布団に入って。風邪、引いちゃうよ」  明日香は丸椅子に座ると日向に注意をしながら顔に化粧水を塗った。  ベッドで転がるのをやめた日向はうつ伏せになり、頬杖をつく。パジャマ姿でない母親がクリームを念入りに塗っている姿をじっと見つめた。 「お母さん、まだ寝ないの?」 「うん、お父さんが帰ってくるから準備しないと」 「……そっか。お父さん、早く来ないかな」 「ねえ、日向。今夜の読み聞かせはどうする? なんの絵本を読もうか?」 「大丈夫。自分で見る」  もぞもぞと布団の中に入ると日向は、枕元に置かれてあった子ども用の絵本を手に取った。 「えっ、いいの?」  化粧下地を手に取った明日香は、絵本を広げている日向のほうを見て尋ねた。 「お母さんはお父さんを待たなきゃでしょ。だから平気!」  日向は、おひさまのような笑顔で明日香を安心させようとした。  ぽかんと口を開けていた明日香は、うれしそうに破顔する。 「ありがとう。何かあったら、すぐにお母さんを呼んでね」 「うん、おやすみなさい」  父親の雪緒は、テーブルの上にある夕食には目もくれず、缶ビールをおいしそうに飲んでいた。これが一本目ではないのだろう。雪のように白い肌が赤くなっている。  そんな雪緒の様子を明日香は、なんともいえない表情でじっと我慢していた。  どうして、お父さんはいつもお母さんを困らせて、悲しませるんだろう?   日向は、父親の姿を見ていると、どんよりとした黒い雲が空一面に広がり、雨が降っている日のように憂鬱な気分になった。

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