113 / 157

第13章 夢4*

 ばちんと日向と雪緒の目が合う。  すると雪緒は、ただでさえ赤い顔をさらに赤くして鬼のような形相になった。日向のいるドアに向かって歩いてくる。  今すぐ階段を駆け上り、ベッドに飛び込んで布団をかぶらないと……! と日向は、やるべきことがわかった。  ところが金縛りにあったみたいに身動きがとれなくなってしまっていたのだ。  ドアがギイッと音を立てて開く。  逆光によって表情が読めなくなっている父親の体がぬっと目の前に現れる。 「おい、何を見ている?」 「あ……」 「お父さん、おかえりなさい」  笑顔でその一言を口にすればいい。それなのに日向は父親に挨拶をすることがまともにできず、身体を震わせていた。  雪緒はおもしろくなさそうに目を細め、ビールを飲み干し、空になったアルミ缶を床へ落とした。そして腰をかがめ、日向の黒曜石のような瞳を覗き込むように身をかがめる。  童話に出てくる狼のような父親の姿に日向は腰を抜かした。 「なんだ、その目は? おまえも俺をバカにしているのか!?」  むんずと雪緒は日向の黒髪を掴み、頭を乱暴に揺さぶった。 「やだ……痛い……!」  髪を引っ張る父親の手をどけようと日向が抵抗し、顔を正面から背ければ、ますます雪緒の機嫌が悪くなる。 「あなた、何をしているの!? 日向!」  顔色を悪くした明日香は本能的に息子を助けようとした。  日向の髪を掴んだままの雪緒が、勢いよく明日香のほうへ振り返る。 「おまえがいけないんだろう、明日香!」  雪緒は隣近所に声が聞こえてしまうことも一切気にせず、大声を張り上げた。 「男だか、女だかわからないできそこないのガキを生んで碓氷の家に泥を塗った! こんなもの、俺はいらなかったのに……!」 「なっ!?」  雪緒が吐き捨てるように言うと明日香は唇を噛み、息を詰めた。 「本当だったら俺は、おまえみたいな身分の低いオメガの女などと結婚しなかったんだ。アルファの女と結婚できたのに……抑制剤も持たずに発情期を起こして、俺を誘惑したおまえが悪いんだよ! おまえのせいで俺の人生は全部、ぶち壊しだ……僕は、おまえの魂の番である、()()()の身代わりになるつもりはないからな!」  容赦なく雪緒に責め立てられた明日香は言葉をなくし、立ち尽くした。  父親の口にする言葉の意味が理解できなくても、恐ろしくいやな感情を察知した日向は、涙をボロボロこぼして泣き始める。 「こいつのバース性がおまえと同じオメガになったのは淫乱なおまえのせいだ。僕の責任じゃない! こんなゴミは碓氷の家には必要ないんだ……!」 「お父さん、痛いよ……離して……!」 「うるさいガキだな……いちいち泣きわめくな! どこかの山奥に捨てるぞ!」 「やだ……お父さん……ごめんなさい……ごめんなさい……!」  血走った目つきをした雪緒はギョロギョロした目で日向のことを射殺さんばかりに睨みつけた。  早く日向を助けなくてはいけないとわかっているのに明日香の手足は凍りついてしまったかのように、微動だにしなかった。 「痛いよ……お母さん……お母さん!」  パニックを起こしたように日向が泣き喚いていると、雪緒は汚物を見るような目つきで自分の血肉を分けた息子を見下す。 「本当にうるさいガキだな。なんで、おまえなんかが生まれてきたんだよ」  そうして雪緒は日向の髪を左手で鷲掴んだまま、利き手である右手で拳を作り、振り下ろした。  涙目の日向は大きな拳が、ゆっくりと自分の顔めがけて来るのを、ただじっと見ていることしかできない。  雪緒の体の向こうには口元に両手をあて、目を剥いている明日香と、日向の友だちである陽炎の姿があった。  表情の抜け落ちた陽炎が、唇をかすかに動かして、つぶやく。 「仕方ないんだよ、日向。お父さんは、きみのことも、お母さんのことも愛してない。ゴミみたいに思ってる。きみたちのことを捨てたくて、しょうがないんだ」  日向は心の中で反論した。「違うよ、陽炎。お父さんは悪くない。悪い子である僕が悪いの。だから、お母さんも怒られちゃう。それにね、これは夢なんだよ。眠っている僕が見る悪い夢」  瞬間、日向は雪緒に頬を打たれ、強い痛みを感じた。  何が起きたのかわからないまま二発、三発と殴られる。抵抗しようと思っても体は自分のものではないかのように動かない。  真っ黒な化物のような父親の姿が目に映る。明日香の悲痛な泣き声が遠くから聞こえ、次第に日向の視界は暗くなっていった。  早く目が覚めないかなと日向は心の中でつぶやく。  お父さんは強くて、優しくて、お母さんや子どもを守ってくれる。お母さんを悲しませたり、子どもである僕にひどいことなんてしない。  大丈夫。明日、朝になって目を覚ませば、笑顔のお母さんに会える。  おいしいご飯を食べられて、髪の毛をお母さんにとかしてもらって幼稚園に行くんだ。  ひとりぼっちはさびしいけど、こんな怖いことは幼稚園で起こらない。早く、明日にならないかな……。  そう願いながら日向は目をつぶった。 「――日向、日向。大丈夫ですか?」 「えっ?」  目の前には、幼い子どもの頃、唯一の()()だった陽炎がいる。 「本当にきみが陽炎なの……?」 「よかった。ようやく思い出してくれましたね」  陽炎は口元をほころばせ、心から日向との再会を喜んだ。  信じられないものを見るような目つきをして日向は恐る恐る手を伸ばし、陽炎の手を握った。温かな体温を感じ、脈もとれる。  陽炎は幻でも、幽霊でもない。確かに目の前にいる。

ともだちにシェアしよう!